EF64の2号機が牽引する中央西線の普通列車です。
撮影は昭和55年ということなんですが、この当時の中央西線にしては、極々普通の光景かと思っていました。ところが実際はその逆で、超貴重な光景だったのです。
毎度お馴染み、昭和53年当時の時刻表を調べてみたら、もう既にその時期から東西問わず、中央本線は電車化が進んで、客車普通列車は絶滅寸前でした。東京-新宿-塩尻間の “東線” は昭和50年3月の改正で普通列車は電車化されており、客レは消滅。塩尻-名古屋間の “西線” に残るのみとなりましたが、それも1往復のみで、中津川-長野間を往復していました。
画像だけでは判別しにくいのですが、運用は長野運転所 (長ナノ~現在のJR東日本長野車両センター) だったため、35系が主体の編成だったそうです。しかし編成中における旅客車の割合はそんなに高くなく、主体は郵便車や荷物車。だから、旅客車は “取って付けたように” 連結されているにすぎませんでした。
一応、客貨両用のEF64ですが、この当時はもう、貨物列車の牽引がメインで、客車列車といえば夜行ばかり。中央本線で言えば、篠ノ井機関区配置車が急行 「きそ」 を牽いていただけ (画像の2号機は当時、稲沢第二機関区に配置されていた) 。中央西線急行のもう一方の雄、 「ちくま」 にも客レはありましたが、臨時のみ (定期は電車と気動車による運用) 。
長岡運転所配置車は時折、寝台特急 「北陸」 を牽くシーンが散見されました。長岡と言えばメインは1000番台ですが、1000番台の配置に先駆けて一部の0番台が長岡に転出して、上越線で使用されました。これはおそらく1000番台投入に向けて、乗務員訓練の意味が多分に含まれているかと思います。
「北陸」 の牽引機はそれまでは同所のEF58でしたが、昭和55年10月のダイヤ改正でEF64に交代。前述のように、長岡は1000番台の塒でしたが、1000番台に混じって0番台も 「北陸」 を牽引。ただ、長岡の0番台は5両と少数派だったために、滅多に 「北陸」 を牽引する機会が無く、雑誌等に掲載されたのもごく僅かとなっています。
JRになって 「あけぼの」 を牽いたシーンが有名になりましたが、国鉄時代に限って言えば、EF64 0番台の寝台特急牽引は 「北陸」 のみとなります。
さて、画像の2号機ですが、今年生誕50年を迎えます。
新製配置は福島機関区で、直流で電化された福島-米沢間の通称 「福米線」 で使用されました。後に奥羽本線が交流電化に切り替わると、稲沢第二機関区 (現在のJR貨物愛知機関区) に転出して、中央西線の運用に就きます。この時、新製時に取り付けられていた氷柱除けの防護策が外されました。
昭和57年に岡山電車区に転出して、電化された伯備線の運用に就きますが、客レの牽引は無く、専ら貨物列車の牽引に勤しみます。民営化直前の昭和62年3月に再び名古屋に戻り、ここで民営化を迎え、JR東海の持ち物になりましたが、1年後には静岡に転出。ここが終の棲家となり、平成21年に廃車されました。
急激に廃車が進むEF64。0番台はもはや風前の灯火で、絶滅は時間の問題とも言われています。1000番台もEH200の台頭によって数を減らしていますが、末永い活躍を祈らずにはいられません。
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
鉄道ピクトリアル No.815 (平成21年3月号) 特集 「EF64形」 (電気車研究会社 刊)
鉄道ピクトリアル No.869 (平成24年11月号) 特集 「中央本線」 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.247 (昭和56年11月号) 特集 「客車列車」 (交友社 刊)
国鉄監修 交通公社の時刻表 昭和53年8月号 (日本交通公社 刊)
ウィキペディア (EF64形電気機関車)