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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (513)

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鉄道模型メーカーの関水金属 (カトー) から、久々に車運車のク5000が再生産されることになりました。今回は、車付きと車無しの2タイプがリリースされることになり、その車も昔は裸のままだったのが、今回のリリース分から積み荷の車にはカバーが掛けられ、少しだけリアルさが増したような感じに見てとれました。それで、今回の 「嗚呼・・国鉄時代」 は、今や過去帳入りしてしまった鉄道による自動車輸送をピックアップしてみたいと思います。

戦後、日本でも自動車が普及するようになって、各メーカーでこぞって新車を開発し、製造するようになると、工場からどうやってラインオフした自動車を運ぼうか、自動車メーカーは頭を悩ませていました。1台だけなら、無蓋車とか長物車とかに積んで運べば良いんですけど、生産台数が増えると、無蓋車では当然足らなくなりますし、積み降ろしや固定方法が問題となり、専用の車両が製造されることになりました。それが車運車と呼ばれる貨車になります。

一番最初に登場した車運車は、国鉄所有では無く、トヨタ自動車が所有した私有貨車でシム1000と呼ばれる車両が車運車の第1号になります。時に昭和37年のこと。
このシム1000は、パブリカ専用の車運車で、下段に4台、上段に2台の合わせて6台を積むことが出来ました。車運車の記号は 「ク」 ですが、いわゆる 「大物車」 扱いで、当時の記号は 「シ」 でした。
当時の車運車はいずれも私有で、上述のシム1000 (トヨタ自動車) 、シム2000 (ダイハツ工業) 、シム3000 (三菱自動車) と、各メーカーで輸送用貨車を持っていました。日産自動車が所有していたク300形は、上段の一方に捲き上げ装置 (早い話がエレベーター) を付けて、自動車が自力で上がれる画期的なシステムを導入しました。
しかし、時が経つにつれて、自動車も大きくなると、当然シム系の貨車には積めなくなり、新たな車両が求められます。そこで国鉄では、今まで私有に頼ってきた車運車を国鉄独自で開発・製造することになり、全長を長くして大小問わず、乗用車であればどんな車種でも積載可能な汎用の車両が登場しました。それがク5000形です。

ク5000登場に先駆けて、昭和41年にク9000形を製造して、実際に乗用車を積んで試験を行ったところ、その結果が良好だったので、すぐに量産を開始しました。その他、10000系高速貨車グループに属する、最高速度110km/hのシム10000形を計画しましたが、車体長が22m超えで信号保安装置に影響が出るのではという懸念と、その車両のみでの組成で効率が良くないなどの理由から、計画段階でお蔵入りしてしまいました。

ク5000は2000ccクラスで8台積載可能で、発駅と着駅には専用のプラットホームとスロープが設けられ、自動車は自走しながら積み込むことが出来ました。また車両間にはステップが備えられていて、長編成でも積み降ろしは楽でした。但し、自動車を扱う駅には、そういった施設とモータープールが必要なため、どの駅でも自動車の積み降ろしが出来るというわけではありませんでした。
当初はカトーのク5000じゃないけど、ボディ剥き出しのまま輸送されました。蒸気機関車が牽引するわけでなく、煤煙で新車が真っ黒になることはないとの判断でしたが、制輪子 (ブレーキパッド) から出る鉄粉や、パンタグラフから出る銅粉などが自動車に付着して汚損・破損が問題となったことから、以降はカバーを被せるようになりました。荷主の自動車メーカーも次々に参入し、輸送規模も全国に拡大していきました。その中のフラッグシップが東京-九州間で19両編成の専用列車 「アロー号」 でした。
全盛期は昭和45年で、 「アロー号」 が20両編成になったことと、その年の年間輸送台数が79万台に達し、日本国内の自動車生産台数の30パーセントが鉄道による輸送で、全国の顧客に届けられていました。まだトラックによる輸送体系が確立されていなかったこともあって、鉄道による自動車輸送はまさに黄金期でした。

しかし、国鉄は相次ぐストライキと、貨物運賃の値上げを断続的に行ったことから顧客離れが進みました。トラック (キャリアカー) による輸送体系も確立され、次第にトラック輸送に切り換える荷主が増え、専用列車は軒並み減少していくことになります。そして、昭和60年3月のダイヤ改正で鉄道による自動車輸送は廃止されます。
ところが、その翌年に復活しました。前々から契約していた日産自動車が、ダイヤ通りに運転して正確な時間に送り主に届けられるという利点を生かし、再び鉄道輸送を再開したのです。栃木工場で製造された輸出向けの車を横浜 (本牧ふ頭) へ送り込む列車で、そのままJRに引き継がれます。平成元年には、日産の北米向け販売チャンネルである 「インフィニティ」 を載せるのがメインになっていましたが、そんな中、日産の最上級クラスである 「インフィニティ・Q45」 を載せるため、ク5000を少し改造しました。また、国鉄時代から朱色 (朱色3号) 1色だった外板塗色を、民営化に合わせて、イメージアップを狙ったのでしょうか、赤、青、白の3色に塗り替えられ、これは 「トリコロールカラー」 と呼ばれるようになります。

輸出需要の減少と車そのものをコンテナに積む輸送方式に切り替わると、車運車のアイデンティティは薄れ、平成8年にク5000による輸送方式は廃止され、そのままク5000は廃車されて形式消滅となります。廃車になった車両の台車を石炭車のセキ8000形、ピギーバック貨車のクム80000形へそれぞれ流用されています。
ピギーバック輸送も車運車といえば車運車。また、 「カートレイン」 にも一時期使用されていました。
全車廃車になっていますが、1両 (ク5902) だけ解体を免れ、長い間、宇都宮貨物ターミナルの側線に他の貨車と一緒に留置されていましたが、平成23年に那珂川清流鉄道保存会に寄贈されました。

コンテナ列車 「フレートライナー」 や、雑多な貨車をいくつも連ねて走る車扱い列車ばかりが目立つ国鉄時代の貨物列車ですが、自動車を運ぶ列車もあったことを忘れないで欲しいですね。

【画像提供】
い様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.275 (交友社 刊)
ウィキペディア (車運車、国鉄ク5000形貨車)



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