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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (512)

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戦前国鉄の大スターといえば、やはり、 “流電” こと、モハ52系をおいて他にはありません。
似たような時期の映画俳優に準えると (無謀かもしれませんが) 、モハ52系は東映の片岡千恵蔵でしょうか、そしてモハ43系が大映の長谷川一夫で、 「横須賀線のスター」 だったモハ32系はさしずめ、松竹の阪東妻三郎でしょうか。他にも市川雷蔵とか市川右太衛門とか、準えるに値する俳優は数多いるんですけど、それと国電がリンクしなかったです。戦後ですと80系が高倉健で、70系が鶴田浩二ってところでしょうか。そうすると、151系はやっぱり石原裕次郎かな。

モハ52系もモハ43系も広義で言えば同じ系列に属しますし、どちらも関西急電の一翼を担った電車です。でも、ここでは敢えて52系と43系は別物として扱います。

モハ52系が 「モハ52系らしかった」 のはほんの僅かな期間でした。つまり、本来の登場目的である、関西急電に使用されたのは戦時中を含めて15年足らず。その後は流転の車生が待ち受けていました。
車歴14年というのはまだまだ働き盛りですが、昭和25年には新鋭の80系が急電に投入されるようになり、52系は阪和線の特急列車 (料金不要) に充当されることになりました。しかし、それも長続きはせず、昭和30年には70系電車が阪和線に登場して52系を置き換え、しばらくの間各駅停車に使用された後、昭和32年に飯田線に転じます。ここは馴染めたようで、引退まで飯田線を離れることはありませんでした。当初、身延線も転用候補に挙がっていたようですが、身延線ですと、屋根を低くする必要があったことから、飯田線に落ち着いたという説がありました。もっとも、パンタ部分を低くしたモハ52は似合わなかったかもしれませんね。

117系の外板塗色の基本となった、モハ52の登場当初の塗色から幾度となくボディカラーを変えましたが、最終的には飯田線の標準塗色であるスカ色に落ち着きました。後にクモハ43や “合いの子流電” と呼ばれるクモハ53も飯田線に集められ、関西の往年のスターが伊那路で再びチームを結成することになります。

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京阪神でも、泉州地区でも、さらには伊那路でもクモハ52はスター扱いで、後に 「伊那」 で80系が入線し、戦前と戦後の二大国電スターが共演 (競演) することになります。しかし、寄る年波には勝てず、昭和53年10月をもって引退することになりました。幸運にもクモハ52001が吹田工場 (→JR西日本吹田総合車両所) で、クモハ52004が名古屋市の 「リニア・鉄道館」 で保存されています。クモハ52001が狭窓の一次形、52004が広窓の二次形で、52001は吹田総合車両所の一般公開でないと見ることは出来ませんが、52004は通年、見ることが出来ます。

現役時代に見たことや乗ったことはありませんが、モハ52の持つインパクトというのは、今のJR車両の比ではないような気がしました。

【画像提供】
い様、ジ写真部様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.872 (電気車研究会社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳 第7号 「東海」 (新潮社 刊)
ウィキペディア (国鉄モハ52系電車)


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