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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (424)

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「EF58」 、 「ジョイフルトレイン」 、 「中間車の先頭車化改造」 等、何かと流行やトレンドが多かった昭和50年代後半の国鉄ですが、もう一つ、列車運行上の流行として 「フリークエントサービス」がありました。これは、地方都市において、データイムでの列車の本数を多くして利便性を高めた運行方式を指しますが、それまで在来線に依存してた長距離輸送を新幹線に委ねることによって線路容量に余裕が出来たことで実現した運転方式とも言えます。もっとも、こーゆー書き方だと新幹線の通ってない地区では実現出来ないような表現にもつながりますが、在来線では貨物列車や荷物列車も削減されていましたので、新幹線が通っていない線区でもフリークエントサービスは実施出来るのです。

在来線主導の時代、運行ダイヤは特急や急行といった優等列車と貨物列車を優先的に組み入れ、その合間を縫って普通列車が走るというのが長年のお約束になっていましたが、これでは 「交通弱者」 と言われる子供や高齢者を無視した格好になり、地方都市では 「普通列車の本数をもっと多くして欲しい」 という要望が国鉄に多く寄せられていたという話も聞きます。しかし国鉄は、特急や急行といった “金のなる木” を無視出来ず、逆に地方都市の切なる願いを無視し続けていました。
昭和50年代に入ると、前述のように新幹線の開通・延伸やそれに伴う優等列車の削減、そして貨物輸送の減少等が国鉄の考え方を少し変えるようになります。加えて、道路が整備されてマイカーが普及するのは良いけど、車が増えればそれだけ都市部に車が集中することになり、各地方都市の主要道路は軒並み渋滞することが大きな社会問題となり、渋滞が無く、ほぼダイヤ通りに運転される鉄道輸送がクローズアップされるようになりました。そこで国鉄は、東京、名古屋、大阪といった三大都市圏以外の地方の主要都市向けに、編成は短いながらも概ね10~20分程度の運転間隔を保ち、地域によっては均一ダイヤ (パターンダイヤ) としました。

このフリークエントサービスは、後に 「シティ電車方式」 と呼称されるようになりますが、その嚆矢となったのが広島地区の 「ひろしまシティ電車」 でした。昭和57年11月の改正で同地区用に115系3000番代を新製して輸送改善を実施しますが、ダイヤ改正前と比べても6%の増加となり (日中は10%の増加) 、同時期に同様の運転方式を実施した関西本線名古屋口では、20%も増加しました。この結果を受けて、昭和59年2月のダイヤ改正では、この運転方式を各地区に拡大することになり、対象となった札幌、静岡、浜松、岡山、北九州、福岡 (博多) で、それぞれに愛称を付けたり、列車によってはヘッドマークも取り付けられました。昭和60年3月の改正では、仙台や新潟、金沢、富山などでも実施しました。

さて画像は、静岡地区のシティ電車、 「するがシャトル」 です。
「するがシャトル」 は、興津-島田間の区間運転用の列車に採用された愛称で、15分間隔での運転でした。
東海道本線の熱海以東は、東京や横浜への通勤圏ということで、11~15両の長編成 (グリーン車付き) 列車が10~15分間隔で運行していましたが、熱海以西はガクンと列車本数が減り、20~30分間隔にまで拡がりました。ダイヤ改正を機に、静岡駅を中心として列車を増発することになり、 「するがシャトル」 が登場することになるのですが、列車本数が増えたことによって利用客も増加の兆しを見せ、改正前と比較しても7.6%の増加となりました。

ただ、車両は新製されず、静岡運転所 (静シス~現在のJR東海静岡車両区) 配置の113系が使用されました。この中には、111系も含まれており、広島地区に投入された115系3000番代と入れ替わるようにして、下関運転所 (広セキ~現在のJR西日本下関総合車両所運用研修センター) に配置されていた111・113系が静岡に転入し (実際は “出戻り” ですけどね) 、東海道線静岡地区の増発用に充てられます。利用者はともかくとして、マニアの間では 「静岡にも115系3000番代が投入されるのでは?」 と期待していたようですが、見事に裏切られました。
こういった声を受けてか、昭和61年11月のダイヤ改正ではさらに列車の増発が実施され、車両は119系が新たに使用されるようになりました。新製といきたいところでしたが、飯田線から2両編成8本を転入させて対処しました。
119系は、静岡配置前に浜松工場 (名古屋工場?) で 「するがシャトル」 用に改造されました。室内の改造は無く、塗色の変更と冷房を載せただけですが、実際の運行は2両編成を2つ繋げた4両編成だったんでしょうね。民営化前には111系は全廃され、113系と119系の二本立てで運転されていました。

昭和63年には運行区間を富士駅まで延長し、この区間では1時間あたり6本の運転本数となります。使用車両に新たに115系が加わりますが、これも他所からの転入車になります。ようやく新車が投入されるのは、平成元年になってから。運行区間の拡大によって、高速運転が求められるようになるのですが、台車と主電動機が103系と同じものを使用している119系 (力行や制動時の性能は105系に準拠) では高速運転には適しません。そんな事情から、新車での置き換えられて、119系は2年間の出向を終えて飯田線に戻っていきました。
平成2年以降は、富士-島田間の 「するがシャトル」 と沼津-浜松間の普通列車とが事実上一本化され、特に富士-浜松間の列車本数が大幅に増加しました。このため、 「するがシャトル」 の一部が浜松まで延長されるようになりますが、程なくして 「するがシャトル」 の名は使われなくなります。この辺りになれば、各地でJR形の車両を使って (JR形の車両で国鉄形を置き換えた) 地方都市の輸送システムがさらに変わっていった時代とリンクしまして、 「シティ電車方式」 での輸送システムは次世代に進化して姿を変えていきました。

地方都市を中心に各地で大流行したフリークエントサービスですが、利用者には好評でも、鉄道マニアからすれば、けばけばしいカラーリングに塗りたくられて (特に北陸や仙台の交直流急行形電車) 、あれだけでも 「国鉄は終わったな・・・」 と嘆いた人もいるのではないでしょうか。

【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.653 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.275、306 (いずれも交友社 刊)
復刻・増補 国鉄電車編成表 1985年版
復刻版 国鉄電車編成表 1986.11ダイヤ改正号
(いずれも交通新聞社 刊)
国鉄監修・交通公社の時刻表 1985年5月号 (日本交通公社 刊)
ウィキペディア (東海道線静岡地区、シティ電車、国鉄119系電車)

( 「嗚呼・・国鉄時代」 アーカイブス)
「するがシャトル」 カラーの119系についてはこちらを


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