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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (334)

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ヘッドマークも誇らしげに、EF58牽引の特急 「つばめ」 が駅で佇んでいます。モノクロで判りづらいですが、淡緑5号に塗られた 「青大将」 と呼ばれるカラーリングです。昭和31年11月の東海道本線全線電化を機に、蒸気機関車から出る煤煙の影響を受けなくなったことで、 「もっと明るい色にしよう」 と淡緑の採用に至ったわけですが、このカラーは 「つばめ」 「はと」 だけに採用されたスペシャルカラーで、まさに 「孤高の色」 。それも、昭和35年6月に 「つばめ」 「はと」 が電車化されるまでの約3年半しか見られなかったので、これこそ 「レジェンド」 と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。

さて、この客車 「つばめ」 「はと」 には、編成の最後部に一等展望車が連結されていました。今でこそ、ジョイフルトレインとかでオープンデッキタイプの展望車は数例存在しますが、この時代は 「つばめ」 「はと」 だけにしか連結されませんでした。しかも、その利用者は政治家、財界の大物、芸能人、プロスポーツ選手、一流企業の社長または重役クラスしか乗れなかった超セレブな車両だったりします。一等展望車が庶民に開放されたのは、国鉄末期の昭和62年、唯一残ったマイテ49がジョイフルトレインとして復活してからのことで、その敷居はあまりにも高すぎた車両だといえます。

その一等展望車は、上り下りにかかわらず、編成の最後部に連結されます。 「でも、そうしたら、上り列車は編成の先頭にならないの? 起終点で方転させてたの?」 という疑問が生じます。オールドファンならこの謎はすぐに解るでしょうけど、まだ黙ってて下さいね。
「展望車は常に編成の最後部に・・」 とは先程もお伝えしましたが、そうなると、件の疑問のように東京と大阪でそれぞれターンテーブルに乗っけて方向転換させなくてはなりません。しかし、1号車のスハニ35も必ず、機関車の次位に連結されます。つまり、 「つばめ」 「はと」 は編成ごと方向転換するのです。えっ!? どうやって? 鉄道模型なら 「リバース」 という線路配置を使って列車を編成ごと方向転換させることが出来ますが、実車はそうはいきません。しかし、東京にも大阪にもリバースではありませんが、リバースに近いやり方で列車を方向転換させていたのです。それが 「三角線」 と呼ばれるものです。三角線とは、 「さんかくせん」 であり、決して 「みすみせん」 ではありません。

画像は尼崎駅で撮ったものだそうですので、まずは下り列車を例に取ります。
大阪駅に到着した 「つばめ」 「はと」 は、基地である宮原操車場に引き上げます。この時、一等展望車は東京方向に連結されていますのを覚えておいて下さい。
大阪駅から宮原操車場へのルートは今と同じですが、そのまま回送しても、展望車は東京方を向いたままなので、上り列車は機関車の次位ということになるから、これではダメ。では、どうやって展望車を大阪方に向けることが出来るのか? そのキーワードこそ、画像の尼崎駅になります。
「つばめ」 「はと」 の回送列車は、塚本から北方貨物線には入らず、まずは尼崎駅に向かいます。ここで機関車を付け替えて、今度は進路を上り線に切り替えて塚本の先から北方貨物線に入って宮原操車場に向かいます。宮原に回着した 「つばめ」 「はと」 は、上り列車としての整備などを行いますが、いつの間にかスハニ35は東京方、展望車は大阪方を向いています。そして上り列車としての身支度を終えた 「つばめ」 「はと」 は再び大阪駅に向かうわけですが、今度は尼崎は通らず、そのまま塚本で東海道本線に合流しますので、展望車は大坂方を向いたままになります。

では次に、東京に着いた上り列車はどうするのかを検証します。
通常であれば、東京駅に着いた回送列車は、そのまま品川客車区に向かえば良いのですが、 「つばめ」 「はと」 はそうはいきません。塒である品川客車区を過ぎて、向かったのが品鶴線の蛇窪信号所。ここで、機関車を付け替えて、品鶴線と山手貨物線とを結ぶ短絡線に入ります。今でこそ、 「湘南新宿ライン」 のメインルートとして確固たる地位を得ているこの短絡線ですが、かつては貨物列車しか走っていませんでした。 「つばめ」 「はと」 の回送列車もこれを使って方転していたのです。
機関車を機回しして、その短絡線を使い、大崎駅で再び機関車を付け替えて、今度は山手貨物線で品川客車区に向かいます。いつの間にか展望車は大阪方を向いています。でもね、品川→大崎→蛇窪→品川だったかもしれないんですよね。

三角線を使って方向転換する列車はもう一つありました。京都-博多間を結んだ客車特急時代の 「かもめ」 は、展望車こそ連結されていませんでしたが、編成ごと方転する必要があった列車でした。京都では梅小路のデルタ線を使って方転させていたのでしょうし、博多でも三角線を使った方転を実施していたと思われるのですが、 「かもめ」 に関しては詳細がよく判りません。 「鉄道模型趣味」 の昭和58年1月号にそのルートが掲載されていた記憶がありますので、気になる方は参考にしてみて下さい。

煩わしさしか無かった客車列車の方向転換ですが、前述のように、 「つばめ」 「はと」 は昭和35年6月の電車化によってその作業は無くなりました。電車化に際しては、一等展望車に代わる 「パーラーカー」 が連結されましたが、方向転換はされず、クロ151はずっと大阪方を向いたままでした。 「かもめ」 も昭和36年10月にキハ82系によるディーゼル特急に生まれ変わって、博多や京都での方転は無くなりました。

【画像提供】
ウ様

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