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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (269)

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国鉄幹線の電化工事が急ピッチで進んでいた昭和40年代、その電化の進展とともに、客車優等列車の牽引は蒸気機関車から電気機関車へ、非電化区間についても蒸機からディーゼル機関車へと交代していきました。日本最大の蒸気機関車として名を馳せ、数々の著名な優等列車の牽引に従事していたC62も、昭和39年の山陽本線全線電化を機に、特急牽引から撤退しましたが、その1年後に再びその機会は訪れました。上野-青森間を常磐線経由で結ぶ寝台特急 「ゆうづる」 が昭和40年10月改正で登場するのですが、まだ平-岩沼間が電化されていなかったため、平-仙台間においてC62が牽引することになりました。この時期、東北の 「はくつる」 、九州の 「はやぶさ」 などでSLがブルートレインを牽引していましたが、C62はもうブルートレインは牽引しないだろうと思われていました。それが良い意味で裏切ってくれたので、SLファンは大いに狂喜したと伝えられています。
 
「ゆうづる」 といえば、薄い赤地に白いツルが飛び立つ姿を図案化したヘッドマークが印象的ですが、国鉄稀代の名デザイナー、黒岩保美氏の作品で、数々の作品の中でも 「ゆうづる」 のヘッドマークは最高傑作としての呼び声も高い名作となっています。 (列車名の由来が)  「ツルの恩返し」 で知られる戯曲 「夕鶴」 に因んだとも言われていますが、その物悲しさを見事なまでに表現しています。
C62が牽引するということで、大いに注目された 「ゆうづる」 ですが、実際に平-仙台間の運転時間は、上下とも深夜から早朝にかけてで、カメラやフィルムの技術が進歩しているとはいえ、夜が明けるか明けないかの時間帯に撮影するのは至難の業で、走行写真を撮るには夏至から9月にかけての数ヶ月しか無く、さらに列車通過時間帯と日の出の時間帯が一致するとは限りませんので、まさにワンチャンスという言葉がピタリとハマる列車だったといって良いでしょう。
 
しかし、その栄華は長くは続かず、昭和42年8月には常磐線最後の非電化区間である草野-岩沼間の電化が完成し、同年9月限りでC62は 「ゆうづる」 牽引から撤退し、電気機関車 (多分、ED75だと思いますが) にバトンタッチしました。こうして、 C62最後の晴れ舞台は呉線の 「安芸」 と函館本線の 「ていね」 「ニセコ」 となりまして、空前のSLブームを呼び起こすようになるのです。
 
「ゆうづる」 を牽引したC62は平機関区が受け持っており、画像の23号機の他に、10、22、24、37、38、39、45、46、47、48、49の12両が在籍していました。関係者の証言によると、調子が良かったのが23号機で、逆に調子が悪かったのが10号機だったそうです。 「ゆうづる」 の牽引撤退後、状態が思わしくなかった10、22、24、38、39、45号機が廃車、逆に状態が良かった23、37、46、47、48号機が糸崎機関区へ転属となっています。C62のラストナンバーである49号機は平機関区に残って越年となりますが、翌年6月に廃車となり、これをもって東北地区からC62は消えました。
 
我々の世代にしても 「お伽話」 でしかない、現役時代のC62。その勇姿というのは、雑誌やビデオ等の媒体でしか見ることは出来ませんが、もし、その場に居たとしたら、きっと震えが止まらないんでしょうね、きっと・・・。
 
【画像提供】
タ様
【参考文献】
鉄道ファン No.392、No.400 (交友社 刊)
名列車列伝シリーズ 11 「寝台特急 「北斗星」 &カシオペア+ブルトレ客車 part.2」 (イカロス出版社 刊)
ウィキペディア (黒岩保美、夕鶴)
 
 

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