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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (246)

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私が鉄道模型にハマるまで、このC50形蒸気機関車の存在を知りませんでした。蒸気機関車といえば、やはりD51であり、C57であり、C62でありますから (もちろん、その他の細かい機関車も知らないわけじゃないんですけど) 、C50なんてこの世に存在しないものと思っていたクチでした。
 
昭和56年、とある理由で鉄道模型に興味を持つようになった私ですが、友人から借りた鉄道模型の入門書みたいなのが私の既成概念を大きく揺り動かすことになるのです。
 
「関水金属・・・C50・・・それ、なぁに?」
 
ただでさえ、そんなに頭脳明晰というわけでもないのに、その入門書に書かれていたメーカー名と機関車がどうしても結びつかなかったのです。私における鉄道模型のスタートはトミックスであったことから、「鉄道模型=トミックス」 という図式が脳みその中で成立してしまい、もっと極論を言うと、トミックスに洗脳された感さえありました。だから、Nゲージのメーカーはトミックス以外、この世に存在しないものと思っていたんですね。だから、突如として沸き起こった 「関水金属」 と 「C50」 というキーワードが子供心にどうしても納得がいかなかったのです。私にとって 「せきすい」 とは、住宅メーカーしか思い浮かびませんでしたしね (それは “積水ハウス” でしょっ!) 。
 
さらに別の本を買ったりして、鉄道模型 (特にNゲージ) について勉強すると (この探求心を学校の勉強にも生かせたら、私は間違いなく東大に行けたでしょう) 、関水金属は日本におけるNゲージ鉄道模型の元祖であり、その一番最初にリリースした製品がC50形蒸気機関車とオハ31系客車であることが判りました。関水金属の創始者は加藤氏であり、この 「KATO」 がそのまま関水金属のブランドになりました。
 
話を実車のC50に戻します。
C50は、大正の名機・ “ハチロク” こと、8620形の改良版として昭和4年に製造された中型機関車です。
8620では装備されなかった空気ブレーキと給水加熱器を組み込みまたが、逆に8620では装備されていた島式心向き台車は採用されず、曲線通過性能は低下しました。また、空気ブレーキと給水加熱器が逆に重量を増加させる結果となり、近代化されたにもかかわらず、8620ほどの汎用性は失われました。
それでも昭和4年~8年の間に154両が製造され、四国を除く全国に配置されて地方の旅客列車や小規模な貨物列車などを牽引しましたが、期待を込めて設置された給水加熱器が不調だったこともあって、また簡略化した先輪の構造が仇となって脱線することもしばしばあったことから、本線での使用は避けられるようになり、次第に入れ換え用として使われるケースが多くなりました。
戦後、台湾に “出征した” 5両と戦災で被災した2両を除いた148両が生き延びましたが、その殆どが入れ換え用に使用されていました。しかし、昭和30年代に入り、DD13を代表とする入れ換え用ディーゼル機関車の登場によって、次第に数を減らしていき、昭和49年に最後の1両が廃車されて、C50は形式消滅しました。また、本線で使用されるケースも戦後は極端に減ったこともあって、梅小路蒸気機関車館開館の際にも、保存対象から外されてしまいました。
 
こうした理由から、コアなSLマニアには知られていても、一般人からすれば、C50はアイデンティティのない機関車と位置付けられてしまいました。そういった意味から何故、当時の関水金属はC50を国産Nゲージの第1号にしたのかが解りませんでした。中型で小型レイアウトにもうってつけだというのも解らなくはないのですが、だったら、比較的名の知れた8620にすべきじゃなかったのかなと素人はそう思います。
 
目立たない機関車の割りには、保存例が数例あり、近隣だと足立区にある 「北鹿浜交通公園」 に75号機が保存されています。また、画像のラストナンバー154号機は廃車後も亀山市の 「観音山公園」 に保存されています。
 
何だかんだ言いつつも、関水金属には感謝ですよね。これがなかったら、きっと今もC50の存在なんて知らないままだと思うから。16番では横浜にあったトビー模型店の製品が有名でした。
 
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
ウィキペディア (国鉄C50形蒸気機関車、トビー模型店)
 
 
 
 

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