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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (199)

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長野駅で出発を待つ特急 「あさま」 です。
平成生まれのお子ちゃま鉄道マニアからすれば、 「あさま」 のイメージは新幹線でしょうし、我々 “昭和のヲタ” からすれば、189系を使ったL特急を連想します。でも、 「あさま」 の原点はこの181系ですし、我々アラフォーの世代よりも少しお兄さんの世代はこちらを連想するのではないでしょうか。
 
「あさま」 は昭和41年10月改正で上野-長野間に登場した特急ですが、東日本地区では 「とき」 に次ぐ181系使用の2例目となりました。こうやって記述すると、決まって 「 “こだま” や “つばめ” はどうなるんだ?」 というツッコミが寄せられます。ここでは敢えて “厳密” にいきましょう。 「こだま」 「つばめ」 「はと」 などの東海道線特急は151系を使った列車で、181系使用例はありません。
 
その151系ですが、昭和39年10月の東海道新幹線開通によって、その後の去就が注目されました。トータル151両が製造された151系ですが、120両を新大阪や大阪で新幹線と接続する山陽特急に、30両を上越特急 「とき」 に転用する事が決定しました。しかし、元来平坦線向けの仕様で製造された151系、山陽本線や上越線には勾配区間があることから、そのまま転用するのは無理ですので、主電動機をMT54に換装して出力をアップさせ、勾配区間でもスムーズな走りが出来るように改造されて形式も181系となりました。また、上越方面向けの改造車は併せて耐寒耐雪装備も加えられて、雪対策も万全のものとしました。
 
一方、運転開始当初から151系の寒冷地向けバージョン、161系を使用した上越特急 「とき」 が好評で、増発を繰り返していたわけですが、この人気に肖ったのか、信越本線や中央本線にも同系を使用した特急を運転する機運が高まり、それに応えたような形で 「あさま」 と 「あずさ」 が登場しました。それに伴って、181系が増備される事になるのですが、 「あさま」 と 「あずさ」 はその走行線区の特殊性から、その線区事情に合わせた仕様で新製されました。
第一に、 「あさま」 を語る上で外せないのが碓氷峠。既に碓氷峠は粘着運転による新線に切り替えていたため、EF63が補機として連結されていましたが、簡易的な横軽対策が施されただけで、本格的な協調運転装置は取り付けられませんでした。具体的にはエアサスのパンク装置と同検知装置の取り付け、非常ブレーキ吐出弁に絞りを追加、車体台枠と連結器の強化、さらに連結器の緩衝装置の容量増大が挙げられます。台車については急行用471系で初採用されて、その後の優等列車用車両の必須アイテムとなったDT32、TR69を履くようになりました。
また、碓氷峠では、上野寄りにEF63を連結するため、いちいち連結器カバーを外すのは面倒臭いので、連結器カバーを最初から取り付けず、自動連結器が剥き出し状態になったクハ180形が新たに新製されました。
中央線対策として、中央線名物の断面の低いトンネルを通過するため、パンタグラフ取り付け高さを従来より40mm低くしたほか、運転台屋根に取り付けられていた前照灯の廃止、さらに予備笛、ウィンカーランプの取り付けもされていません。この仕様が後々181系の大きなアイデンティティとなるのです。
 
これら新製車グループは100番台と番台区分されて、従来の車両と異なる仕様である事をアピールします。また、これを機に、161系もモーターを換装して181系となり、ここに151系と161系は181系に統合されて形式消滅となります。181系は、いわゆる0番台が151系からの改造車、40番台以降が161系からの改造車、そして新製車が100番台と大別されます。因みに現在、さいたま市の鉄道博物館に保存されているクハ181-45は、161系として発注を受けたものの、落成した時には既に181系となっていたため、181系として落成したという過去があります。
 
さて、 「あさま」 です。
信越線初の特急ということで、特に長野県にしてみれば大いなる歓迎を受けて華々しくデビューしました。しかし、現状はその期待とは大きくかけ離れていたようです。その大きな原因が碓氷峠。当時、本格的な協調運転装備が開発されていなかったせいもあるのでしょうが、簡易的な横軽対策しか施していない181系は、8両以上の編成を組む事が出来ず、輸送上の大きなボトルネックとなっていました。また、食堂車も連結していないため、当時の特急としてはかなり異端だったと言えます。
昭和43年に、本格的な協調運転装置を持った急行用169系がデビューし、半室食堂車を含む12両編成で運転を開始した事から、「あさま」 の面目は丸潰れ。 「181系にも169系のような協調運転装置を装備しては・・」 という声もあがったようですが、改造するには莫大な費用がかかるため、得策とは言えませんでした。それでも信越本線のフラッグシップとして確固たる地位を持つようになりますが、食堂車非連結の8両編成では、威厳的にはどうしても他地域の特急・急行よりも劣る事から、ジレンマが生じます。
昭和46年、485系に協調運転装備を兼ね備えた489系が登場し、翌年3月のダイヤ改正から客車急行を特急に格上げした 「白山」 として本格デビューします。協調運転出来る構造ですので、食堂車付きの12両編成となり、 「あさま」 をフォローする列車としては十分すぎるホスピタリティでした。そして 「白山」 の間合いで一部の 「あさま」 にも充当され、これが 「あさま」 初の12両編成となるのですが、基本的には 「あさま」 は181系がメインなため、ますます 「あさま」 の立ち位置が微妙なものとなり、一時は 「あさま」 から信越特急主力の座を奪うのではないかとも囁かれました。同じ時期、 「とき」 に充当されていた上越用の181系が雪害で戦線を離脱する車両が続出しました。これを機に、本格的な耐寒耐雪装備を施した新型特急の開発に着手することになり、昭和47年に房総特急用としてデビューした183系をベースに、雪対策を施した新車両が昭和49年に登場します。本来なら別形式を名乗るほどのオールニューの車両ですが、183系に組み込まれ、1000番台を名乗りました。そして、この183系1000番台をベースにして、碓氷峠通過用に本格的な協調運転装備を備えた新車両の製造が検討され、登場したのが189系です。
 
こうして、昭和50年7月までに189系に置き換えられて、181系の 「あさま」 は終焉を迎える事になります。車齢の浅い一部の新製車グループが上越に転じましたが、151系からの改造グループである初期車は老朽化も手伝って、廃車の道を辿る事になります。
 
 
 

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