機番:38号機新製:昭和27年4月30日製造:東芝製造番号:No.301055-4新製配置:高崎第二機関区最終配置:広島機関区廃車:昭和59年1月18日【廃車時の形態】パンタグラフ:PS14前照灯:原型+ハチマキ状ケース尾灯:外バメ式正面窓:小窓+Hゴム支持Hゴム色:黒前面ヒサシ:大型デフロスタ:なし正面手すり:あり正面飾り帯継ぎ目:タイプ 〈列車電話:あり電源車制御装置:なし元空気だめ引き通し管:ありスノープラウ:なしスノープラウ取り付け台座:ありステップ:スノープラウ台座取り付けタイプ汽笛カバー:大型常磐線用列車無線:なし乗務員ドア:FRPタイプ側面ハシゴ:原型側面エアフィルター:鎧戸タイプ側面ナンバープレート:板状タイプ暖房装置:SG【改造履歴 (一部抜粋) 】昭和32年 1月11日~:丙修繕 (施工は浜松工場で、同年1月21日に出場)外板塗色を特急用淡緑色に変更。昭和32年11月27日~:甲修繕 (施工は浜松工場で、同年12月4日に出場)前照灯をLP402型 (+ハチマキ状ケース) に変更。昭和39年 2月 6日~:甲修繕 (施工は浜松工場で、同年2月13日に出場)避雷器をLA15型に交換。前面に手すりとステップを取り付け。昭和44年 1月11日~:全般検査 (施工は広島工場で、同年1月22日に出場)側面エアフィルターを鎧戸タイプに改造。昭和48年11月19日~:要部検査 (施工は広島工場で、翌年2月27日に出場)車体整備 (前面窓の小窓化及びHゴム支持化、乗務員ドアをFRP化、尾灯の外バメ式化、ワイパーのWP50化など) 。【転配履歴~赤字で書かれているのは貸し出し扱い】昭和31年10月31日:浜松機関区昭和32年 1月22日:東京機関区昭和34年12月25日:高崎第二機関区昭和35年 1月10日:東京機関区に返還昭和35年 9月 7日:宮原機関区昭和35年10月 1日:東京機関区に返還昭和35年11月12日:高崎第二機関区昭和35年12月17日:東京機関区に返還昭和36年10月 1日:宇都宮機関区昭和37年 1月16日:東京機関区に返還昭和37年 5月10日:広島運転所昭和37年 6月 6日:宮原機関区昭和37年10月 4日:東京機関区に返還昭和37年11月 3日:高崎第二機関区昭和37年12月 8日:東京機関区に返還昭和37年12月27日:高崎第二機関区昭和38年 1月 7日:東京機関区に返還昭和38年 2月 6日:田端機関区昭和38年 2月20日:東京機関区に返還昭和38年12月26日:高崎第二機関区昭和39年 1月 3日:東京機関区に返還昭和39年10月 1日:下関機関区昭和43年10月 9日:徳山機関区昭和43年10月23日:下関運転所に返還昭和46年10月19日:宮原機関区昭和46年12月 8日:下関運転所に返還昭和47年10月 1日:米原機関区昭和47年10月13日:下関運転所に返還昭和48年 9月29日:広島機関区新製配置は高崎第二機関区で、その関係から新製後すぐにつらら切りが取り付けられました。また、新製当初は大窓でしたが、上述の車体更新時に小窓+Hゴム化されました。高崎から浜松、そして東京に転配されるのですが、転配履歴をご覧いただいてもお判りのように、ここから怒濤の貸し出しラッシュが始まります。貸し出し→返還→貸し出し→返還を繰り返しました。高崎に多く貸し出されたのは、やはりつらら切り装備が決め手になったのだと考えられます。山陽本線の全線電化が完成した昭和39年に下関運転所 (当時は下関機関区) に転配され、山陽本線を主舞台としますが、ここでも貸し出し→返還を繰り返しました。廃車時までPS14を装備したままでしたが、画像をご覧いただいてもお判りのように、一時期、下枠交差型のPS22を装備していたこともあったようです。昭和50年2月、東海道本線神足駅 (現、長岡京駅) にて。(画像提供:ヤ様)PS22を装備していた時期 ①撮影年、撮影場所は不明ですが、線路配置 (外側線が通過線となっている点やホームが4番線まであるという点) から。東海道本線の芦屋駅で撮られた可能性があります。(画像提供:タ様)PS22を装備していた時期 ②山陽本線の広島駅っぽいですね。38号機の次位はEF61でしょうか?(画像提供:タ様)東海道本線岸辺駅にて。(画像提供:ウ様)団体臨時列車 「敬老号」 ①(画像提供:タ様)団体臨時列車 「敬老号」 ②「敬老号」 は広島鉄道管理局が設定した団臨ですが、38号機以外も牽引しているようなので、毎年の 「敬老の日」 に運転されてる可能性があります。(2枚ともタ様提供)
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「JNR LEGEND」 外伝~ザ・ゴハチ/032
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