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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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JNR LEGEND (571)

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大阪の交通科学博物館から岡山県の津山まなびの鉄道館に移設されたD51 2号機の現役時代の姿です。京都鉄道博物館開館に際して、当然、D51 2号機も保存対象になるはずだったんでしょうけど、元の梅小路蒸気機関車館には僚機で同タイプの1号機がいることから、 「同じタイプのカマ2両あってもしゃーないやろ」 ということで、保存の対象から外れ、さりとて解体するには勿体ないから、津山への移設を目論んだのではないかと思われます。でも、京都鉄博には、C62が3両も保存されているのに、扱いが随分と違うじゃないかとは思いましたけどね。

さて、鉄道ファンならずとも、 「デゴイチ」 の名は広く知られておりますが、それだけポピュラーな機関車だったという証しでしょうか。
昭和11年に1号機が誕生して以来、造られ続けること1,115両。勿論、この数は日本の機関車史上最多であり、おそらく今後も破られることが無いであろう、大金字塔になります。

その1,115両製造されたデゴイチのうち、最初の約100両 (1~85、91~100) は、通常は煙突の前に設置されている給水温め器を煙突後部のボイラ胴上に縦置きにしてボイラと並行して設置し、加えて砂箱と蒸機溜めもまとめて煙突から始まる一つのカバーで覆いました。いわゆる 「半流線型」 と呼ばれるタイプで、ファンの間では 「なめくじ」 と呼ばれて親しまれました。さらに22号機と23号機の2両は、このカバーをキャブまで延長して異彩を放っていました。ファンからは 「スーパーなめくじ」 と呼ばれました。

この 「なめくじ」 は、D51設計の基礎となったD50よりもキャブの奥行きが短いのが特徴だったりします。重量配分を考慮したためだとされていますが、D50よりも狭いキャブは、労働条件としては劣悪な環境だったそうです。また、軸重を第一動輪から14.99t、14.80t、14.79t、14.21と、第一動輪を重くして第四動輪を軽くする設計にしましたが、この牽引時に重心が後ろへ移動することで各動輪の軸重が平均化されて空転が発生しにくいD50と比較しても明らかに不備な重量配分でした。このため、このグループは現場サイドでも不評で、101号機以降は第一動輪の軸重を軽くして均等化を図りました。また、一体型ドームを止めて、給水温め器は煙突の前に横置きという通常の置き方に変更しました。

初期形はこのように、トラブルが多発しましたが、その後の増備でそういった問題点を一つ一つ克服していきました。もし、改善策を講じず、 「なめくじ」 仕様のまま製造され続けたとすれば、あんなに沢山は製造されなかったと思いますし、思いの外早く鉄路から姿を消していたかもしれませんね。

2号機は1号機と同じ昭和11年に川崎車輌 (現、川崎重工) で製造されて、稲沢機関庫 (現在のJR貨物愛知機関区) に新製配置されました。その後、大垣機関区や中津川機関区など主に東海道本線名古屋口や中央本線 (中央西線) といった中京地区での活躍がメインだったみたいですね。そして晩年は再び古巣の稲沢第一機関区 (←稲沢機関区←稲沢機関庫) に戻って余生を過ごし、昭和46年12月13日付けで廃車になりました。ただ、実機は中津川機関区に留置されたままでの廃車扱いになっていたそうです。また、稲沢において最後まで残っていたカマの一つだったそうです。
このまま解体かとも思われましたが、大阪の交通科学館 (→交通科学博物館→京都鉄道博物館) に保存されていたC53 45号機が京都の梅小路蒸気機関車館に移設されることになったので、その代替として奇跡的に解体を免れ、保存されることになりました。

標準型のデゴイチも良いですが、 「なめくじ」 もまた、愛敬のあるスタイルで人気は高かったらしいです。

【画像提供】
ウ様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.404、421 (いずれも交友社 刊)
機関車データベース
ウィキペディア (国鉄D51形蒸気機関車、津山まなびの鉄道館)


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