今思えば、何であんなことを言ったんだろう?
鉄道の分野に限らず、幼少期というのは時に素っ頓狂なことをイメージして、それを言葉として発することがありますけど、私もご多分に漏れず、何を思ったか、時折、いや、しょっちゅう訳の解らないことを口走っていたようです (自分自身でも記憶あり) 。
随分前にお話ししたかと思いますが、あれは幼稚園に行っていた時のこと。一時期、虫歯治療で高輪台へ行っていました。当時の都営地下鉄1号線 (→浅草線) が 「地獄への道先案内人」 に思え、東京都交通局の5000形電車が閻魔様のように見えたというのも、前にお話ししました。ただ、当時から都営1号線は京成電鉄や京浜急行電鉄と相互直通運転をしていたので、今ほどではないにしても、乗り入れる車両は多種多様でした。 「何で、八千代台へ行く電車がここに来るの?」 と疑問に思ったのもその頃です。
そんな中、今まで目にしたことがない派手な車両がやって来ました。真っ赤っかなボディに白い腹巻き、そして片開き扉。東西線や総武線しか見たことがない5歳前後の私には、別の意味で明らかなカルチャーショックを受けるのです。そして私は連れ添っていた母親にとんでもないことを言い放つのです。
「何で、丸ノ内線がここを走っているのかな?」
母親は、 「これは丸ノ内線じゃないでしょ」 と言うのですが、私は 「いや、これは丸ノ内線だよ。だって、赤くて白い線が入っているから」 と反論したような記憶はあります。この赤くて白い線が入った電車が京浜急行の電車だと判るのはもう少し先になってからになります。因みに、丸ノ内線は開業当初から両開き扉を採用しているし、白い線の中にサインウェーブが描かれているので、その識別点が5歳の頃に判っていれば、 「これは丸ノ内線の電車じゃない」 とすぐに判ったんでしょうけどね (いや、瞬時に判るでしょっ!) 。
1000形については、今更説明する必要はないですね。
元々が地下鉄乗り入れ対応車という位置づけで開発された車両ですが、いざデビューすると、あれよあれよという間にその数は増えまくり、気がつけば京浜急行を代表する車両になりました。
長い製造期間の中で、駆動方式や足回り、冷房など、いくつかの変更点があってバリエーションが豊かになりましたが、本来の目的である地下鉄乗り入れは勿論のこと、地下鉄乗り入れ以外の本線運用から支線での運用、そして各駅停車から12両編成の通勤快特まで幅広い運用にも対応出来たマルチな車両でした。
画像の車両は、 「1079」 と読めますので、おそらく1978年製の最終増備車の一つではないかと思われます。デハ1079-デハ1080の2両固定で、主に増結用として活躍しました。コアな京急マニアならお判りだと思いますが、デハ1079-デハ1080は過去にも存在し、1964年に製造された初代のデハ1079-デハ1080は後に改番されてデハ1201とデハ1206になります。製造翌年に新製された中間車 (デハ1174~デハ1177) を挟んで6両化され、その後、新製されたデハ1202~デハ1205に差し替えられて、1968年にデハ1201とデハ1206に改番された経緯があります。当初は非冷房で、冷房改造されたとしても分散式の冷房装置でしょうから、集中式の冷房装置を搭載しているということで、これは二代目のデハ1079-デハ1080と判断することが出来ます。
デハ1079-デハ1080のユニットは、1978年製であるというのは前述した通りですが、1971年から1978年の間に製造されたグループの中の一つに組み込まれます。このグループの特筆すべき事は京急初の新製時から冷房装置を搭載したということ。
1000形というと、 「OKタイプ」 と呼ばれる川崎製の台車を思い浮かべる方も多いかと思いますが、このグループは東急・川崎共用の車体直結ウィングばね式のTH-1000型を履いています。
冷房化によって自重が増えたため、主電動機の熱容量も増やす必要があります。そのため、1974年製以降の車両は、主電動機の出力をアップさせてそれに対応させました。
デハ1079-デハ1080は、新1000形が登場しても活躍を続けていましたが、番号の重複を避けるため、2003年にデハ1381-デハ1382に改番されました。高松琴平電鉄など、他社に譲渡されたという記録が無いため、京急在籍のまま廃車されたと思われます。
世の中、好むとか好まざるとか、それぞれの思い入れや拘りがあって、それはそれで良いことなんですけど、やっぱり 「京浜急行1000形」 は、丸みを帯びた赤い車体に白い腹巻きをした、この車両でないとアカンですよ。
今はさすがに 「丸ノ内線の電車だ」 とは思わなくなりました。
【画像提供】
ウ様
【参考文献・引用】
ウィキペディア (京浜急行1000形電車)