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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (168)

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時は昭和50年12月24日、北海道は夕張線の紅葉山駅で撮ったD51 241号機だそうです。
一見、何の変哲もないSLの画像のように見えますが、 「昭和50年12月24日」「夕張線紅葉山駅」、そして 「D51 241」とくれば、SLファンはピィ~ンと来るでしょう。そうです、この日は国鉄北海道総局、追分機関区、そしてSLファンにとっては忘れられない特別な日でもありますよね。日本の現役蒸気機関車が営業運転で本線を走った最後の日として特筆されます。そして恐らくこの画像は、まさにその最終列車を撮ったものと思われます。
 
昭和30年以降、いわゆる 「動力近代化」 の煽りを受けて、幹線は次々と電化されて電気機関車投入されていき、非電化区間でもDF50やDD51といった幹線用ディーゼル機関車が次々と登場し、蒸気機関車は日を追うごとに姿を消していきました。動力近代化が一番先に着手されたのが本州で、行き場を失った蒸機は九州や北海道に逃げ延びます。九州では昭和49年までに全面撤退し、いよいよ残るは北海道だけとなりました。本線用大型機のC62は昭和47年に既に引退していますが (臨時列車を含めると、同48年まで存命) 、その段階で残るのは9600、C11、C57、D51といった汎用機関車。しかし、北海道にも動力近代化の波が押し寄せてきて、昭和50年12月14日に室蘭本線 (室蘭-岩見沢間) で最後の蒸機牽引の旅客列車が運行されました。この時の牽引機がC57 135で、同機は鉄道博物館に今も保存されています。そして残るは追分機関区のカマのみで、本線用ではD51が室蘭本線や夕張線などで石炭列車を牽引し、入れ換え用に9600が在籍していました。そして、C57 135牽引による最後の蒸機牽引の旅客列車から10日たったクリスマス・イブ、夕張線で営業用としては最後の蒸機牽引列車 (6788レ) が運転されました。この時の牽引機がD51 241でした。
このD51 241による最後の営業用蒸機牽引列車運転から2ヶ月余りが経った昭和51年3月2日、同じく追分機関区所属の3両による入れ換え仕業が行われ、これが国鉄蒸気機関車の最後の運用となりました。
 
全ての蒸機運転終了後、追分で最後まで働いていたD51 241、465、603、1086、そして9600形機関車の39679、49648、79602はそれぞれ保存されることが決まっていたのですが、昭和51年4月13日に発生した追分機関区の火災によって、新製配置されたDD51もろとも焼失してしまいました。燃えたのは扇型庫で、外に留置されていて難を逃れたカマや他の機関区の配属機が代わりに保存されたりして後世に語り継いでいます。
 
D51は1,115両という、国鉄の機関車では最も多く製造されたというのは皆さんもよくご存じの話かと思いますが、その製造両数の多さや製造期間が多岐に渡るため、様々なスタイルのD51が登場していますが、追分のカマで特徴的なのが 「ギースル・エジェクタ」 という誘導通風装置が取り付けられた車で、追分に集中配置されていました。昨今、KATOでこの 「ギースル・エジェクタ」 付きのD51が発売されましたが、この装置は北海道を象徴するものとして特筆されます。
「ギースル・エジェクタ」 とは、シリンダーからの蒸機排出のブラストパイプ7個を1列に並べ、これに合わせて煙突も楕円形にしています。煙突を楕円形にすることによって、排気圧の変動を平準化してボイラー効率を高め、煙突から排出されるシンダーの捕捉も多比率となります。これが蒸機にとってどの位利点があるかと言いますと、従来の煙突に比べて燃焼効率を高める事が出来、それによって蒸機温度を上げて消費する石炭の量を減らして牽引力を上げ、さらに火の粉も減少することが出来ます。36両のD51にこのギースル・エジェクタが装備されていました。
 
この1枚はまさに、歴史的な1枚と言えるでしょうね。
 
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
季刊 j train Vol.11 「復活蒸機 いま、むかし」 (イカロス出版社 刊)
ウィキペディア
 
 
 
 
 

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