昭和45年から営業運転を開始した 「新快速」 は、昭和47年から153系電車 (注:一部にクハのみながら165系が組み込まれますが、ここでは153系と一括りにさせていただきます) に置き換わり、それを機に、装いも新たに灰色+青の腹巻きという独自のカラーに塗り替えられて 「ブルーライナー」 という愛称で、劣勢に立たされていた私鉄に対して反撃の狼煙を上げました。
「新快速」 は東京にはない独特の列車で、前述のオリジナルカラーと相まって私には 「未知なる列車」 というイメージがつきまといましたが、昭和50年代に入ると、153系の老朽化が深刻さを増すようになり、代替の車両が検討されます。大阪鉄道管理局に対してあまり良いイメージを持っていなかった国鉄本社は、この新型車両に対しても難色を示しましたが (新快速のカラー変更でも最初は渋りに渋ったらしい) 、 「私鉄に打ち勝つため」 「国鉄のイメージ刷新」 を前面に押し出した具申で本社も渋々了承し、117系電車が登場したのは皆さんも周知の事実かと思います。
117系は昭和55年1月にデビューして、 「シティライナー」 という愛称を得ましたが、一気に置き換えるのではなくて段階的に置き換えていきました。それから約半年後の同年7月9日を以て153系の置き換えを完了しましたが、画像はその最終日。今だったら、彼方此方に鉄道フーリガンが大挙押し寄せて、無意味な 「ありがとうっ!」 という名のシュプレヒコールを連呼するんでしょうけど、当日はそういう素振りは殆ど無く、鉄道友の会から花束が贈呈されただけの質素なラストランだったそうです。そんな中、最後の1編成に湘南色のクハ165が組み込まれて異彩を放ちました。ブルーライナー全盛期でも運用上や検査上の都合で湘南色の車両が入ることがありましたが、後にも先にも湘南色のクハ165が編成に組み込まれるのはこの日だけだったとか。大鉄局のファンサービスだったという風の噂もあったようですが、明らかに違和感タップリで、それこそ今だったら 「何で全色新快速色にしないっ!?」 とフーリガンから怒号に近いクレームが舞い込むんでしょうね。ただ、違和感タップリでも貴重な記録であることは間違いなく、一時代を築いた 「ブルーライナー」 にとってある意味 “有終の美”だったのかもしれません。なお、画像の165系はクハ165-164だそうです。方向幕に 「野洲」 を掲出していますが、昭和61年11月改正まで新快速は野洲には停まりませんでした。ただ、一部列車に野洲発着の列車があり、もしかすると、ホントにホントの (153系使用列車の) ラストランだったのかもしれませんね。
国鉄時代は、その鮮烈なデビューとは裏腹に国鉄本社のクソみたいな圧力やセクショナリズムによって思う存分暴れ回れなかった新快速。民営化後になってようやく本領を発揮して、今や京阪神間には欠かせない列車に成長しましたが、あくまでも設定目的は 「阪急や阪神などの並行私鉄に打ち勝つため」 。その目的など何処へやら、琵琶湖を突き抜けて北陸まで行くことを当時は誰が予想していたでしょうか・・・?
【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.235 (交友社 刊)
キャンブックス 「関西新快速物語」 (JTBパブリッシング社 刊)