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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (451)

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ヘッドマークからも判るように、片町線の101系電車です。
長尾-四条畷間が複線化されたのが昭和54年10月1日のことですので、撮影した日も自ずと判ろうもの。ただ、駅としては何処なのかなという疑問が湧いてきますけど、ホームがカーブしているので長尾駅かなという気がします。

片町線は今でこそ、 「JR学研都市線」 という愛称でJR東西線と共闘して関西の重通勤路線としての性格を確固たるものにしていますが、前々回の福知山線同様に、近畿圏の路線としては近代化がかなり後手後手に回っていた路線としてあまり話題にも上らない路線でした。首都圏でいうと、南武線や横浜線が似たようなレベルかなという感じがしますが、片町線の名誉の為に申し添えておけば、関西の国電区間としてはいち早く電化された路線として後世に語り継がれています。因みに阪和線の方が先に電化されていましたが、当時、阪和線は阪和電気鉄道という私鉄だったことを付記しておきます。
関西の国電区間でいち早く電化されたのは良いけど、逆に関西の国電区間では最後まで旧形電車が後生大事に使われていた不名誉な歴史も併せ持っており、重ね重ね 「片町線って何やろ?」 と一抹の中途半端さは否めません。また、比較的最近まで長尾-木津間は非電化のままで、電車は京橋-長尾間の運転でした。

首都圏が山手線と京浜東北線、中央線快速から先に新形電車を投入していったのは有名な話ですが、近畿圏だとまず大阪環状線と京阪神緩行線、そして阪和線から新形電車を優先的に投入していきました。だからどうしても片町線は後回しになってしまうのです。101系を近畿で一番最初に投入したのは大阪環状線ですが、103系は阪和線で、意外にも京阪神緩行線は新形電車の投入は後手でした。201系と205系は京阪神緩行線に最初に投入しましたが、逆に国鉄時代に限って言えば、201系と205系は京阪神緩行線が唯一無二の投入例となります。ただ、101系にしても103系にしても、投入されるのは首都圏からのセコハンばかりで、関西はいつもそんな車両を押しつけられる立場にありました。勿論、新製投入もありましたけど、首都圏に比べたらそんなのは比にならず、本格的に新性能電車の新車が関西に投入されるのは昭和40年代半ばになってからのことです。

昭和48年、関西線の電化が完成して、101系や113系が関西線に投入され、これで新性能電車が配置されないのは片町線だけになってしまいました。昭和32年にモハ90系の一部 (モハ90501とモハ90000) が近畿車輛で製作されましたけど、徳庵にある近車から真新しい次世代通勤用電車を沿線から目の当たりにした人々 (片町線に携わる現場の人も含めて) は 「片町線にはいつ、こんな電車が走るんやろ?」 って思ったに違いありません。その願い (?) が通じるのはそれから20年弱が経った昭和51年のことでした。大阪環状線からの転属で、当初は5両編成でした。一度、新性能化の波が押し寄せれば置き換えはあっという間で、翌年3月には全て101系化されて旧形電車は全て取り替えられました。その2年後には片町線としては初めての真新車である103系が新製投入されました。ここで注目すべきは、この新製投入 (12両) の先頭車が関西では初めてのお目見えになる高運転台のクハ103 (クハ103-797、799、802、804) でした。さらに、このクハ103は非ATCの高運転台クハの第一陣で、それが片町線に投入されたということで、この時ばかりは鼻高々だった片町線でした。

もう一つ、片町線で忘れてはならないのが、101系の冷房改造車。
元々は、中央線の特別快速用に昭和47年に100両弱が冷房改造されましたが、103系や201系の投入によって全車が転属しました。首都圏では南武線に、近畿圏には片町線にそれぞれ転配されて、片町線の冷房化促進の礎になりました。

昭和50年代後半になると、京阪神緩行線に201系が新製投入されまして、それに伴う余剰で103系が淀川電車区 (大ヨト) や日根野電車区 (天ヒネ~現在のJR西日本吹田総合車両所日根野支所) に転配されてきまして、老朽化した101系を取り替えるようになりました。当初は奈良電車区 (天ナラ~現在のJR西日本吹田総合車両所奈良支所) が無かったので、日根野電車区の車両は主に関西線での運用に従事していました。
国鉄末期になると、各地、各線で101系の老朽化が深刻化し、103系や201系、205系を投入して101系を置き換えるようになります。民営化の段階で残っていた101系は、中央・総武緩行線、南武線、鶴見線、そして片町線でした。このうち、片町線の車両は平成元年に森ノ宮電車区 (大モリ~現在のJR西日本吹田総合車両所森ノ宮支所) に転属になり、桜島線用として最後の花道を飾ることになります。なお、関西線用の車両はJRには継承されなかったと記憶しています。

さて、片町線車両の塒であった淀川電車区って何処にあったのでしょう?
淀川電車区は初代と二代目があって、初代は現在の大阪市都島区中野町にあって、昭和60年に現在の放出駅の先、東大阪市川俣に移転しました。それが現在の網干総合車両所明石支所放出派出所になっています。
淀川電車区の構内には、貨物専用の淀川駅があり、現在の鴫野駅の先、城東区蒲生付近に片町線と城東貨物線とを結ぶデルタ線の分岐点があり、巽信号場という施設もありました。淀川貨物駅は昭和57年に廃止になりましたが、淀川電車区はまだ存続してたので入出庫線として残り、淀川貨物駅は淀川信号場となりました。その後、昭和60年に前述のように放出に移転して、初代の淀川電車区、淀川信号場、巽信号場は廃止となりました。跡地には大規模な高層住宅や病院が建ちました。

片町線は平成9年のJR東西線開通を機に、路線上の起点を京橋に変更して、それまでの起終点であった片町駅は、大阪城北詰駅に姿を変えて廃止になりました。そして、JR東西線と一体化して、尼崎でJR神戸線やJR宝塚線に乗り入れて神戸や宝塚方面に向かう重通勤路線に大変貌を遂げましたが、さらに平成20年には久宝寺-放出間の貨物線を旅客化した 「おおさか東線」 が開通しました。この放出-久宝寺間の貨物線も片町線の支線扱いになり、おおさか東線→片町線→東西線というルートで東海道線方面に向かう列車もあります。そしていよいよ来年度、かねてより工事中だった放出-新大阪間の旅客営業が開始される予定で、ますますその重要度が増す片町線です。

【画像提供】
ツ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.874 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.261、282、541 (いずれも交友社 刊)
日本鉄道旅行地図帳 第10号 「大阪」 (新潮社 刊)
週刊JR全駅・全車両基地 No.34 「尼崎駅」 (朝日新聞出版社 刊)
ウィキペディア (片町線、淀川電車区、淀川貨物駅、国鉄101系電車など)



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