JR東日本から113系が撤退して久しいですが、115系はまだ健在。113系と違って、平坦線でも勾配線でもOK、暖かい地区でも寒い地区でも大丈夫とあっては、平坦線用、暖地専用の113系に行き場が無くなるのは必至で、115系が生き残るのも納得してしまいます。私はどちらかというと113系の方が好きなんですけどね。特化するよりもオールマイティの方が受け入れられるのはどの業界でも同じことでしょう。
老朽化が懸念され、後継となる新形式の話もあるんだかないんだか判らない状況の中で、今もなお、上越線や中央線などで活躍しています。
画像は今のものではなくて、れっきとした国鉄時代。1000番台がまだ新進気鋭の頃ですね。いつでも冷房が取り付けられる準備だけはしている 「冷房準備車」 も懐かしいですね。
115系1000番台は昭和52年に登場しました。
いわゆる 「シートピッチ改善車」 の第1号でもある115系1000番台はまた、その投入線区の特性上、雪や寒さへの対策をさらに強化した車両で、183系1000番台や485系1000番台などとともに、大量に増備されました。
115系1000番台は信越本線でも使用されて、碓氷峠も上り下りしていましたが、短編成での運用が前提のために、横軽対策は施されていません。
皆さんも近郊形電車のボックスシートに乗ってて、 「窮屈だ」 と感じたことがあるかと思いますが、115系1000番台に始まる 「シートピッチ改善車」 は、そんな乗客の不満を一気に解消した車両・・・だったんです。個人的にはあまり 「拡くなったな・・」 としみじみ感じたことはありませんでしたけど、在来車よりも座席の幅を110ミリほど、座席の間隔 (シートピッチ) を70ミリ、それぞれ拡大させました。たかだか110ミリ、70ミリと 「これで拡げられたの?」 と思うほどの拡大幅ですが、当時はこれでも十分に拡大されたと歓迎されたみたいで、その後、113系2000番台、417系、415系100番台、115系2000番台、113系1500番台などに波及していくのであります。
そして115系1000番台のもう一つの大きな改善点が前述のように耐寒耐雪機能をさらに強化したこと。新潟や長野といった地区はご存じのように、本州では屈指の豪雪地帯。電動車には浸雪対策として主電動機の冷却方式を変更しました。その関係で、それまで車体の妻部に取り付けられていた冷却風取入口を廃止して、車端部に 「雪切室」 を設けて、そこに冷却風を導くようにしました。雪切室が設けられた関係でその部分だけ、ロングシートになっています (0番台や300番台はボックスシート) 。
また、夜間における留置線滞泊の際、水管割損を避けるために、自動給排水装置を取り付けました。これは485系1000番台に次ぐ二例目。
1000番台からクハ115の便所を片方のみの配置として、奇数向きの1100番台にはトイレは設置されていません。また、サハ115の便所も廃止されました。これは113系2000番台や115系2000番台などにも共通していますが、やはり便所がないと不便であるという利用者の声が多かったため、クハ115-1142以降は奇数向きクハにも便所が取り付けられるようになりました (サハの便所無しは変わらず) 。
登場時、世間的には通勤車両にも新製時から冷房が取り付けられるようになっていましたが、地域性の気候風土に関連して冷房化は見送られましたが、いつでも冷房が取り付けられる準備だけは施されていました。前述のようにこれを 「冷房準備車」 と言うのですが、近郊形電車で冷房準備車は113系1000番台と417系、そしてこの115系1000番台、さらに115系2000番台の身延線仕様がそれに該当します (後年、全車冷房改造済み) 。
また、パンタグラフは300番台で採用されたPS23を搭載し、これによっていわゆる 「低屋根車」 は製造されることはありませんでした。
115系1000番台はまず、旧形電車の置き換えを名目に長野地区に投入されたという記憶がありますが、配置は松本運転所 (長モト~現在のJR東日本松本車両センター) で、中央東線松本口、篠ノ井線、大糸線、信越本線で、国鉄時代においては長野地区では1000番台のみが配置されて、0番台や300番台が配置された記録はありません (例外的に、三鷹電車区 (西三ツ~現在のJR東日本三鷹車両センター) に配置されたスカ色の0番台や300番台が長野に足を運んだという記録のみ) 。
次いで、長岡運転所 (新ナカ~現在のJR東日本長岡車両センター) に配置されて、新潟色の70系電車を置き換えました。この時、長岡に配置された車両は湘南色だったんですが、70系の流れを受け継ぐべく、黄色と赤のツートンカラーにしようとは思わなかったのでしょうか?
この辺りからでしょうか、1000番台は単に豪雪地帯のみの配置に留まらず、115系の標準として300番台の代わりに大量に増備されていき、小山電車区 (北ヤマ~現在のJR東日本小山車両センター) や新前橋電車区 (高シマ~現在のJR東日本高崎車両センター) といった平坦区間の車両基地にも配置されて、東北線 (宇都宮線) や高崎線での運用も始まり、東京でも見られるようになりました。
中央東線では前述のように、スカ色の0番台や300番台が活躍していましたが、最後まで残っていた旧形電車を置き換えるために、昭和55年に4両編成1本が三鷹に新製配置。当時、唯一のスカ色1000番台として注目を集めましたが、すぐに他線に転属してしまいました。最近になって、いわゆる 「長野色」 に塗られていた車両がスカ色に塗り替えられて、約30年ぶりににスカ色の1000番台が復活したのは、活躍場所が狭められている115系にあって、久々に明るいニュースとなりました。なお、三鷹の115系は、昭和61年11月に豊田電車区 (西トタ~現在のJR東日本豊田車両センター) に全て移管して、配置を無くしています。
国鉄分割民営化を前に、日本全国で編成の短縮化に伴う、中間車の先頭車改造工事が推し進められていましたが、当時一番多かったのが115系でした。サハをクハに、モハをクモハにといった具合に積極的に工事が行われました。先頭車は運転に関連する機器が組み込まれているため、先頭車をまんま製造すると、コストだけがバカ高になってしまいます。しかし、国鉄には新車を製造するだけのお金がありません。そこで中間車に先頭部だけ取り付けた方が安価に済むということで、推し進められた施策でしたが、これが番台区分の複雑さをさらに紛らわしいものにする根幹となりました。それから、パンタグラフ付きのモハ114にも先頭部が取り付けられることになり、新形式クモハ114も新たにお目見えしました。これは電化が完成した越後線や弥彦線向けに改造されたもので、当時から2両運転を基本としてたことから、115系の2両編成が登場することになりました。普通ですと、105系や119系を投入すると言うのが先入観としてあるのですが、やはり新車を投入するだけのお金がないことから、115系の改造で賄いました。
耐寒耐雪機能の強化、シートピッチ改善など、115系を名乗っておきながら、中身的には従来の0番台や300番台とは全く異なる構造から、本来ですと別形式を名乗る必要があるのですが、労使問題や会計監査からのツッコミを逃れるために、敢えて115系に編入したという逸話があります。これは183系1000番台、485系1000番台、EF64の1000番台などにも同じことが言えまして、 「どうやったって、違う車両だろう」 と思っていても、その形式に組み込まれているのはそういう絡繰りがあるのです。労も使も国鉄は腐敗しきっていたのです。115けい1000番台はそんな時代の流れに翻弄されて生まれた車両でした。
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
ウィキペディア