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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (164)

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東京から1100kmあまり、夜を徹して東海道・山陽本線をひた走ってきた寝台特急 「さくら」 が、下関駅に到着しました。ここで機関車をEF65から関門トンネル専用のEF81 (またはEF30) に付け替えて九州へ向かいます
 
昭和17年に開通した関門トンネルは、長らくEF10が専用機関車として活躍しましたが、鹿児島本線が交流電化されるのを機に、交直両用のEF30が昭和35年に新製されてEF10を置き換えました。以来、関門トンネルはEF30の独断場だったのですが、輸送力増強のために専用機関車を増備することになりました。しかし、増備される機関車はEF30ではなくて、当時、いわゆる “日本海縦貫線” をメインに細々と客車や貨物列車を牽いていたEF81に白羽の矢が立ちました。関門トンネルはその特性上、海水による塩害から車両を守るために、ステンレス車体が用いられましたが、EF81の増備車もステンレス車体を採用することになりまして、日本海縦貫線で活躍する車両と区別するために、300番台と番台区分されました。
 
昭和48年に第一陣の301、302号機が落成して、門司機関区に配置されました。
EF81の0番台は当時、旧形客車や荷物列車なども牽引していたために、電気暖房発生装置 (EG) を搭載していましたが、300番台は短区間のみの運用だったために、EGの搭載は省略されています。また、ステンレス車体を採用していることから、自らの体重も軽くなったため、エアフィルターの下辺りに人口の贅肉 (調整荷重) を搭載しています。さらに降雪地域ではないエリアなので、スノープラウを始めとする耐寒耐雪装備もほぼ省略されています。
300番台は翌49、50年にも1両ずつ増備されて4両体制となり、ブルートレインから貨物列車まで、関門トンネルを通過する電車、気動車を除く列車は全て、EF30とEF81のお世話になりました。
 
画像は昭和53年に撮影されたものだそうです。
合理化の一環で、昭和50年3月に東京駅発着の列車を除くブルートレインのヘッドマーク取り付けが省略され、客車側のテールを見ないと、何の列車だか判らない時代に入りました。当然、下関-門司間も取り付けられず、先頭だけでは列車の判別が不可能でした。だから酷い雑誌・書籍になると、24系なのに 「さくら」 だとか、14系なのに 「富士」 だとか、EF81300番台が先頭に立っているのに 「日本海」 だとか、かなりいい加減な列車紹介をしているのが散見されました。
 
私がEF81300番台の存在を知ったのはちょうどこの頃だったのですが、あれはテレビでしたね。
以前にもお伝えしたことがあるかと思いますが、 「富士」 のドキュメント番組をTBSで放映したんですね。女優の岸ユキ氏と作詞家の関沢新一氏が 「富士」 に同乗してレポートするという内容だったのですが、下関に着いて機関車をEF65からEF81に付け替える時に、事件は起こりました (勿論、大仰) 。
当時、小学校3年だった私。EF81といえばピンク色の車体という先入観、そして関門トンネルといえばEF30という先入観をそれぞれ持っていました。それが 「銀色の車体のEF81が関門トンネルを走っている」という前述の先入観を否定する事柄がブラウン管を通じて繰り広げられているわけですから、カルチャーショック以前に、TBSに 「あれはEF81じゃないよっ!」 って文句を言おうかと思ったくらいです。それだけあの機関車は強烈なインパクトを私の脳みそに染み込ませてくれたのです。
 
さて、EF81300番台は関門トンネル専用だったために、東京では縁のない機関車でしたが、その “縁のない機関車” が東京にやって来ることになりました。
画像はまさに301号機ですが、この撮影から4ヶ月後の昭和53年10月に302号機とともに門司機関区から内郷機関区 (福島県いわき市) に転属するのです。そして常磐線をメインに客車や貨物列車を牽引するようになります。これは関門間を行き交う列車の統廃合が実施されたことによって牽引する列車が少なくなったことから余剰が発生したことと、内郷区に所属していたEF80を置き換えるための措置であり、まさに大抜擢といえる転配だったのです。ちょうどこの頃、関東地区を中心とする東日本エリアでは、EF13やEF15、EF58などの旧型機関車がまだ活躍していましたが、老朽化が懸念されるようになり、その置き換え用としてEF65やEF81などが続々と増備されていました。EF81も敦賀や富山、あるいは酒田に配属していた一部が田端や内郷などに転属しています。このため、日本海側でしか見られなかった機関車が太平洋側でも見られるようになったのです。この中には後にお召し機となる81号機や 「スーパーエクスプレスレインボー」 の専用機になる95号機なども含まれており、その当時は地味でしかなかったのですが、民営化を境に大ブレイクする機関車が数多いました。そして関門海峡でしか見られなかった機関車が関東地区にやって来たということで、かなり注目を集めたのは言うまでもありませんが、一部で失望の声が上がりました。というのは、301号機と302号機は内郷転属を機に、ステンレス剥き出しの車体をローズピンクに塗りたくったのです。内郷所属の機関車は常磐線中心の運用で、新金線を介して新小岩にもやって来ました。私も1回だけだと思いますが、300番台を見た記憶があります。その時に思ったのは 「ステンレス剥き出しのままだったらな・・・」 ということ。コルゲートでその識別は出来るものの、やっぱり300番台は “銀色の車体” がアイデンティティ。関東でも異彩を放って欲しかったと思ったのは私だけではないと思います。
 
常磐線の主的存在であったEF80を完全に置き換える雰囲気になった昭和57年、301号機と302号機は内郷から田端機関区に転属します。EF80の置き換えにあたっては、EF65やED75が投入して、一部分で見られたEF81の東北本線での運用を消滅させて、捻出するというフローが実施されました。EF81は田端に移るもの、EF70を置き換える名目で再び日本海縦貫線に戻るものとに分かれました。
 
こうして内郷所属時代よりも至極普通に東京で見られるようになった300番台ですが、長くは続きませんでした。国鉄末期の昭和60年、今度は先輩機でもあり元同僚機でもあったEF30の老朽化が深刻さを増し、民営化前に淘汰することが決定しました。そこで田端の300番台2両を古巣の門司機関区に戻すことを決め、まず302号機が門司に戻り、翌年、301号機が戻っています。さらに0番台を関門向けに改造した400番台も加わり、ここにEF30は全滅します。なお、門司に戻る際、ローズピンクの塗装を剥がすことはせず、ステンレス剥き出しの車体は戻ることはありませんでした。このため、301と302がステンレス車体で活躍したのは僅か5年という短い期間となってしまい、画像はある意味で貴重なものと言えます。
 
国鉄の分割民営化以後、300番台はJR貨物に籍を移し、今もなお、門司機関区に在籍していますが、関門トンネルでの運用はEH500に置き換えられて消滅し、現在は北九州貨物ターミナルを拠点に鹿児島や延岡に足を延ばしています。なお、平成23年に発生した東日本大震災の関係で日本海縦貫線への応援を目的に、303号機と304号機が富山機関区に貸し出された記録があり、結果的に300番台全車が東日本地区を走ったことになります。今後、EH500の増備が進めば、EF81にも何らかの影響が及ぶのは必至で、誕生から40年が経った300番台も先が見えてきたかなという感じが見受けられますが、 “昭和ブルートレイン” を知る車両として、末永い活躍を願わずにはいられません。
 
【画像提供】
ヒ様
【参考文献】
j train Vol.30 「特集・交直両用機関車EF81」 (イカロス出版社 刊)
ウィキペディア
 
 
 
 

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