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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (430)

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また一つ、鉄路に咲いた “華” が散ろうとしています。

「世界初の座席・寝台兼用電車」 として長年活躍した583系電車は現在、JR東日本が6両を所有しているだけですが、その最後の6両がついに2017年の4月を最後に引退することが決定したそうです。定期列車運用無き後は波動用として、各方面への団体列車や臨時列車などで余生を過ごしていましたが、老朽化の問題なんでしょうね。
それまでの特急電車は “こだま形” と称するボンネットタイプの先頭車が主流でしたが、583系 (その先達となる581系も同様) では当時、分割・併合を計画していた事からボンネットと決別し、正面に貫通扉を採用した、後に “電気釜” と形容される新たな先頭車スタイルを構築しました。賛否はありますが、ボンネットとはまた違う流麗な “顔” を築き、以降、モデルチェンジした485系や183系、381系などに引き継がれていきます。

実は、581/583系が登場する以前にも 「寝台電車」 構想はありまして、夜行急行用に 「仮称153系」 と称する寝台電車の形式図が起こされていました。時に昭和35年のこと。この 「仮称153系」 は、10系寝台車によく似たスタイルとなっていて、早い話が10系客車を電車化したようなスタイルでした。この時は 「モハネ153形」 という二等寝台車の他に、 「サロネ153形」 という一等寝台車も計画されていて、あくまでも昼夜兼用ではなくて、夜行専用というのが後の581/583系とは大きく思想が異なります。しかし、東海道新幹線開業後の転用が見込めないなどの理由で、この計画は頓挫し、夜行急行用は客車のまま推移します。それでも、581/583系登場前から寝台列車の電車化というのが計画の俎上に挙げられていたのは、 「これからは電車の時代」 という国鉄設計陣の先見の明がより先を見ていたことを物語っています。

昭和30年代から次々と新型車両や新設定の列車が登場して西へ東へ北へ南へと走り始めていました。新しい車両が登場することは利用者にとっても良い事ではあるのですが、車両が増えればその収容先が新たな問題として浮上します。高度経済成長とともに土地の価格も上昇し、車両基地の確保も段々と難しくなっていき、営業運転を終えた車両を収容することも困難になりつつありました。中には駅構内に隣接した電留線に収納するパターンもあれば、ホームでそのまま仮寝をする場合もあり、国鉄としても喫緊の課題でもありました。そこで考え出されたのが 「昼夜兼用の車両を造ろう」 というもの。極力車両基地に帰さず、昼も夜も働かせるという当時の日本の経済事情がもたらした産物とも言えるのですが、581系はその発想の元で計画・製造された車両なのです。

本格的な運用は、昭和43年10月のいわゆる 「よん・さん・とう」 改正からですが、その前に実際に営業運転に就かせて検証を行うことになり、昭和42年10月に夜行の 「月光」 と昼行の 「みどり」 で営業運転が始まりました。以前にも弊愚ブログでお伝えしたことがありますが、一番最初の配置は九州の南福岡電車区 (門ミフ~現在のJR九州南福岡車両区) でして、まず、南福岡を出区した581系は、8M 「月光」 で新大阪に向かい、翌朝、新大阪駅に着いた 「月光」 は、そのまま向日町運転所 (大ムコ~現在のJR西日本吹田総合車両所京都支所) へ回送してしばしの休憩をとります。同時に寝台解体→座席転換という作業を行います。そして、 “昼仕様” となった581系は再び新大阪へ回送して、今度は1M 「みどり」 として大分へ向かい、到着後はそのまま大分泊まりになります。
次の日、大分発の2M 「みどり」 で新大阪に向かい、到着後、直ちに向日町へ回送して “夜仕様” とすべくまた寝台の組み立てを行って新大阪に回送されて、7M 「月光」 として博多に戻るというダイヤでした。車両基地、特に向日町での留置時間は夜仕様から昼仕様、あるいはその逆という場面転換をしなければならないということで、かなりタイトであったのは想像に難しくありません。それも2~3時間でやらなければいけないから、現場のスタッフは相当なご苦労があったのではないかと思われます。今でも素朴な疑問としてあるのですが、宮原電車区 (大ミハ~現在のJR西日本網干総合車両所宮原支所) では出来なかったのでしょうか?

とはいえ、寝台幅が当時の一等寝台車並みで、電車化によってスピードアップが図られて利用者からは好評を持って迎え入れられ、前述の43.10改正で一気に581系の活躍の場が拡がります。そして西日本だけでなく、東日本にも寝台電車を設定することになり、60Hz/50Hz共用の583系が新たに加わりますが、581系の製造は12ユニット24両のみで終わり、以降は583系に一本化されます (付随車は581系をそのまま名乗ることになる) 。また、 「月光」 「みどり」 では連結されていなかった一等車が583系登場時に新たに設定されました。581系設計時から一等車の設定は計画されていたのですが、リクライニングシートを寝台化するのはかなり難があって、試行錯誤しても無理があることが結論づけられて、一等座席車はそのまま座席車として使うことを決めたというエピソードがあります。ハネも本来であれば、481系並みのロマンスシートにしたかったのですが、寝台セット時における問題が解決出来なかったことから、急行用車両並みのボックスシートとした経緯があります。

東日本での583系は、画像の 「はつかり」 や 「はくつる」 、 そして 「ゆうづる」 に投入され、それに伴って、583系も大量に増備されることになります。東日本の583系というと、先頭車は画像のクハネ583が印象深いのですが、43.10の設定当時は、クハネ581が宛がわれました。また、それまで常磐線経由だった 「はつかり」 は、電車化によって黒磯以北の山岳区間でも動じないことから、東北本線経由に変更されて、文字通り、東北本線を代表する特急列車になりました。

昭和45年、東日本地区の583系列車を15両化する計画が浮上しました。どの列車も慢性的な混雑が続き、列車を増発するか、列車はそのままで編成を増やして対応するかの二者択一を迫られますが、国鉄は後者を選びました。そうすると、クハネ581に搭載されている電動発電機 (MG~150kVA) の給電能力が不足することになり、新たに開発した210kVAのMGを床下に架装したクハネ583が新製されました。MGを床下に架装することによって、定員が増え (昼行時8名、寝台時6名) 、輸送力も大きくなりました。以降、583系の先頭車はクハネ583に統一されることになり、クハネ581は製造が打ち切られます。また、青森運転所 (盛アオ~現在のJR東日本盛岡車両センター青森派出所) のクハネ581は向日町運転所に転属になりました。これ以降、一部のクハネ583が西日本にいるものの、 「クハネ581=西日本、クハネ583=東日本」 という図式が出来上がります。

ところで、クハネ583は東北向けに製造されたことから、空気笛は最初からシャッター式になっているのが特徴ですが、画像のクハネ583は初期のクハネ581のようなスリット式になっています。色々と調べたのですが、なかなかそれに触れている文献が見つかりませんでした。もしかすると、最終増備車になるクハネ583-27~30がそれに該当するのではないかと思われます。スリット式の空気笛はいわゆる “暖地向け” 用で、昭和47年に新製された4両はスリット式で落成したようです。このうち、29と30は昭和50年に青森に転属になっているので、画像のクハネ583は29か30のいずれかになろうかと思われます。特異なクハネ583ということになりますが、結果的には昭和53年までに1両を除いて全てシャッター式に改造されています。

登場時から話題ふりまきの581/583系ですが、全盛期は昭和50年3月までという意見はすくなくありません。しかし昭和40年代後半、寝台特急は “量より質” ということで、静寂性の観点から寝台車両は再び客車へスイッチし、さらに昭和49年に登場した24系25形客車のB寝台は二段式を採用するなど、大量に運ぶよりも居住性を重視する動きが加速し、後々ではありますが、三段式B寝台だった14系も二段式に改造されました。そうなると、581/583系は見事なまでに落ちぶれ、加えて昼夜兼行で働きづめの車両は常に身体に異常を訴え、特に青森の車両は雪害によって、五体満足な車両は殆どありませんでした。
山陽新幹線が博多まで全通した昭和50年3月のダイヤ改正では、山陽特急に大鉈が振られたことでも知られていますが、583系使用の 「つばめ」 「はと」 「しおじ」 「月光」 「きりしま」 は廃止に追い込まれる一方で、それまで485系を使用していた 「なは」 を夜行にコンバートして583系を充当させるなど、世間が騒ぐほどの落ち込みようではないような気がしました。昼行でも 「しらさぎ」 や 「ひばり」 での充当は残っていたし、それこそ東日本に目を向けると、益々需要は伸びる一方でしたしね。ただ、客車列車を含めた寝台列車の改廃の関係で余剰となった寝台客車を新たに設定した列車に充当したり、それまで581/583系を使用していた列車に置き換えるなど、581/583系を寝台列車として使用する機会は少しだけ減ったかなという感じはしました。そういう意味で、581/583系の全盛期は上越新幹線が開業した昭和57年11月までではないかと個人的には思っています。 「はつかり」 は新幹線接続で盛岡-青森間に短縮されたり、 「みちのく」 は廃止、 「ゆうづる」 も客車使用が多くなったりしました。西日本地区でも同様な動きが見られ、 「金星」 が廃止、さらに初めて急行 (立山) に充当されるなど、落ちぶれ方は50.3改正以上ではないでしょうか。そして昭和59年2月の改正では、 「明星」 「彗星」 「なは」 は客車化され、 「有明」 「にちりん」 も全面的に485系に置き換わってしまい、西日本で581/583系使用列車は 「雷鳥」 と急行 「立山」 だけになってしまいました。余剰となった581/583系は普通用車両に改造されてしまい、715系や419系となってその醜態を曝け出しながら余生を送ることになります。

東日本地区も 「はくつる」 「ゆうづる」 「はつかり」 の充当は維持されていましたが、こちらでも余剰が発生していたため、一部を715系 (1000番代) に改造して、仙台近郊の普通列車用に投入しました。715系も419系も残っていた客車列車を一掃するための措置で、新型車両を投入したり、あるいは既存の車両を増備して投入するほどのお金が無かった国鉄の苦肉の策による産物でした。

583系最後の定期列車は大阪-新潟間の 「きたぐに」 でしたが、それも平成24年に臨時列車化されてしまい、事実上の廃止となってしまいます。西日本の583系は波動用に残すことはせず ( 「きたぐに」 運用以外は波動用でしたけどね) 、そのまま全廃の道を歩むことになりますが、東日本地区は冒頭お伝えしたように、波動用として数両が残されていました。それもみるみるうちに引退に追い込まれ、最後に残ったのが秋田車両センター (秋アキ) に配属されていた6両でした。それがいよいよ引退が決まったということで、寂しさもひとしおじゃないかと思います。581/583系にお世話になった方々は結構多いかと思われますし、私も過去、3回583系には乗りました。三段式B寝台、A寝台、グリーン車といずれも乗車車両が違いましたが、今となっては貴重な体験をしました。

さすがにラストランを見に行こうとか、乗ろうとかは思わないけど、今回は素直に 「ありがとう、お疲れ様でした」 と言えるような気がします・・・。

【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.715 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.407 (交友社 刊)
キャンブックス 「581・583系物語」 「さよなら急行列車」 (いずれもJTBパブリッシング社 刊)
国鉄車輌誕生秘話 (ネコ・パブリッシング社 刊) 








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