「首都東京を象徴する電車」 と聞かれて何を連想しますか?
大多数の方が 「山手線っ!」 って答えるでしょうけど、確かに山手線も正解だと思います。でも、もう一つ、この電車も忘れてはなりません。東京メトロ丸ノ内線もまた、私的には 「首都東京を象徴する電車」 ではなかろうかと思います。池袋から大手町、銀座、霞ヶ関、赤坂見附、新宿といった東京の主要地域を経由し、Uの字型に路線を形成して荻窪と方南町に至る丸ノ内線は、朝の運転間隔が1分30秒~2分00秒と、JR中央線や山手線を抜いて日本一の高密度運転を行っています。
いつぞや、 「 “昭和東京” を象徴する電車」 ということでうぐいす色の山手線を取り上げましたが、今回はその丸ノ内線の赤い電車が主役です。
戦後復興のシンボルとして希望の星となった赤い電車は、車体の色もさることながら、技術的にも当時としては最先端のテクノロジーを駆使して誕生した、電車の革命児だったのです。
丸ノ内線は、営団地下鉄として最初に建設された路線です。
丸ノ内線開業前の地下鉄といえば銀座線が有名ですが、銀座線は浅草-新橋間を東京地下鉄道が、新橋-渋谷間を東京高速鉄道というそれぞれ違った会社で建設、運行されていました。1941年に帝都高速度交通営団が設立されて、浅草-新橋-渋谷間が晴れて一つの路線となりました。
終戦後の1946年に告示された 「東京復興都市計画高速鉄道網」 の第4号線で、中野区の富士見町から新宿、赤坂見附、神田、池袋を経由して豊島区の向原までを結ぶ路線として計画されました。さらに歴史を紐解くと、1925年に内務省が告示した 「東京都市計画高速度交通機関路線網」 として計画された5路線のうちの第4号線で、その当時は新宿から四谷見附、日比谷、築地、蛎殻町、御徒町、本郷三丁目、竹早町を経て大塚に至る計画でした。その計画に基づき、1942年に赤坂見附-四谷見附 (弁慶濠) 間を着工しましたが、戦局の悪化で中止せざるを得なくなり、1946年に従来の計画を一部改訂して、 「東京復興都市計画高速鉄道網」 が再告示されました。
1949年に池袋-神田間の建設が開始されますが、神田経由は予算面や技術面から困難であることから、大手町と淡路町を経由するルートに変更され、現在のルートが出来上がりました。
1962年の 「都市交通審議会答申第6号」 において、 「東京4号線は、荻窪及び方南町から中野坂上、新宿、赤坂見附、西銀座、春日町、池袋及び向原を経由して成増に至る路線」 として示されましたが、1968年には池袋以西が削られ、成増・向原-池袋間は8号線 (後の有楽町線と副都心線) として分離されることになります。
1954年1月に池袋-御茶ノ水間が開業しまして、銀座線、大阪市営地下鉄御堂筋線と四つ橋線に次ぐ日本で4番目の地下鉄でした。
池袋から丸ノ内線に乗ると、時折、地上に顔を出しますが、特にそれが多い文京区地域は起伏の激しい台地で構成されているため、その台地を縫うようにして建設されました。
路線は順次延長され、1956年3月には御茶ノ水-淡路町間、7月に淡路町-東京間、1957年12月に東京-西銀座間、1958年10月に西銀座-霞ヶ関間、そして1934年に霞ヶ関-新宿間が開業し、取り敢えず丸ノ内線は全線開通します。 「あれっ!? 新宿-荻窪間と中野坂上-方南町間は?」 と思われるかもしれませんが、1961年2月に開通した新宿-新中野間と中野坂上-中野富士見町間は当時、 「荻窪線」 と呼ばれていました。荻窪線も順次延長され、同年11月に新中野-南阿佐ヶ谷間が、1962年1月に南阿佐ヶ谷-荻窪間、さらに3月に中野富士見町-方南町間が開通し、荻窪線も全線開通します。詳細な文献が見つからなかったのですが、丸ノ内線と荻窪線はあくまでも別路線みたいで、新宿で分離運転されていたようであります。だから、回送列車を除いて新宿から先への営業列車は運転されていなかったみたいです。荻窪線が丸ノ内線に吸収・統一されたのは1972年のことです。なお、 「西銀座駅」 っていう駅、聞いたことが無い方の方が多いかと思いますが、銀座線と丸ノ内線の銀座駅はちょっと離れていたため、丸ノ内線の駅は 「西銀座」 と呼称することにしました。1964年に日比谷線の銀座駅が開業するにあたって、西銀座駅を含めた 「銀座総合駅」 が誕生することになり、丸ノ内線の西銀座は銀座と改称しました。
02系登場まで丸ノ内線の車両はメカニズムこそ違いますが、見てくれはどれも一緒で、初代の300形を踏襲した発展系列の400形、500形と進化していきます。画像は車号こそ 「758」 となっていますが、これも500形で、丸ノ内線の主力として最後まで活躍した車両です。
面白いのは、トップナンバーは 「501」 ではなくて 「569」 。これは営団の習わしで、初代の300形こそ 「301」 からスタートしてますが、300形は30両製造されて、ラストナンバーが 「330」 。次に登場した400形は330の次からカウントされるので、トップナンバーは 「431」 で、 「468」 までの38両が製造されました。そして次の500形が登場するわけですが。やはり 「468」 の次からなので、500形のトップナンバーは 「569」 となるのです。
500形は400形を片運転台にしたタイプで、234両が製造されました。長く造られているとバリエーションが多くなりまして、初期のタイプ (569~644) は標識灯が盛り込まれた方向幕を装備していましたが、645号以降はその標識灯が省略されています。
固定編成とはいえ、時代時代によって車両の入れ替えが実施されていたかと思われますが、画像の車両は1976年以降、編成替えは行われていなかったみたいです。
によると・・・、
←池袋 荻窪→758-904-630-757-903-629
丸ノ内線では少数派の中間電動車である900形を組み込んだ編成で、900形だけは 「901」 からスタートしています。
私が丸ノ内線に最初に接触したのは、小学生の頃だったと思います。
遊園地か野球場かは覚えていないのですが、後楽園に行ったのは覚えています。
今でこそあまり感じないのですが、子供心に大手町駅における東西線と丸ノ内線の乗り換えが長く感じました。それから御茶ノ水駅に着く前に、神田川を橋梁で渡りますが、妙に感動したのも覚えています。橋梁の真上には中央線と総武線の電車が見えるのだから、子供心に 「異次元の電車」 と思っていたんでしょう。それから本郷三丁目-後楽園間も長く感じたな。そして何といっても後楽園駅のドーム型 (かまぼこ型) ホーム上屋っ!
画像にもちょっとだけ写っていますが、後楽園駅を象徴するビジュアルかなという気がします。これは多分、茗荷谷寄りから撮ったものと思われます。本郷三丁目寄りにはデカデカと 「地下鉄」 って表示されていましたからね。
1994年に改築されて上屋は取っ払われ、駅ビル 「メトロ・エム」 となってしまいました。
大学時代も一時期だけ、丸ノ内線を使っていたことがありました。そろそろ02系が登場する頃合いですが、私が通学で使っていた時はまだオール赤い電車でした。まだ300形も健在でした。
02系の更新車には、先代への敬意から、車体側面にサインウェーブを入れていますが、このサインウェーブこそ、丸ノ内線を象徴するアイテムです。東京駅など駅の壁面にもサインウェーブが描かれています。
山手線が “地上の象徴” なら、丸ノ内線はまさに、 “地下の象徴” なんですよね・・・。
【画像提供】
ウ様
【参考文献・引用】
営団地下鉄車両写真集 (交通新聞社 刊)
鉄道ピクトリアル No.759 (電気車研究会社 刊)
ウィキペディア (東京メトロ銀座線、丸ノ内線、後楽園駅、銀座駅)