ED75に牽かれた寝台特急 「ゆうづる」 が終点・青森に向けてラストスパートをかけているシーンです。
撮影が1987年6月ということで、 客車の 「ゆうづる」 にとってもラストスパートということになります。
この1年後 (実際は9ヶ月後) には、 「北斗星」 に発展解消されることになる客車 「ゆうづる」 。既に編成の中には 「北斗星」 で使用されるA個室寝台 (ツインデラックス) が試行的に連結されていますし、早期落成 (改造) した 「北斗星」 向けの金帯車 (乗降用扉も引き戸に改造) も組み込まれています。
「ツインデラックス」 は、国鉄末期の1987年3月21日より連結が開始され、当時はまだ 「北斗星」 の愛称もありませんでしたが、ゆくゆくは北海道直通の寝台特急に連結される目的で製造 (改造) されたというのは前述の通りですが、それまでは東京発着のブルートレインにしか連結されなかった個室寝台が東北方面への列車にも連結されたということで、大いに歓迎されたものです。しかし、 「東京発着のブルートレインこそ、 “真の寝台特急” 」 という信念を崩していなかった偏屈の私は、それを良しとはしなかったですね。 どちらかというと、 「何で 「ゆうづる」 ごときに個室寝台なんか・・・」 という偏屈・偏見の塊のような発想でしかありませんでした。 「ツインデラックス」 組み込みの列車は、平常時は1往復、多客時2往復が設定されていました。
1988年3月に青函トンネルが開通し、同時に 「北斗星」 も運転を開始したわけですが、 「ゆうづる」 の列車名は無くなったわけではなく、583系使用の列車は存置され、 「はくつる」 とともに首都圏と東北を結ぶ列車の重要性は変わらずに運転され続けました。まだ、この頃は東北新幹線も盛岡までしか運転されていませんでしたしね。
「ゆうづる」 は1965年に 「はくつる」 に次いで登場した東北方面への列車で、 「はくつる」 の東北線経由に対して、 「ゆうづる」 は常磐線経由の列車として設定されました。この頃の 「ゆうづる」 といえば、やはりC62が牽引した最後の特急ということで、登場当時からスターダムにのし上がった列車でしたね。電化の進展と共に徐々に本州での活躍が狭められていたC62は、本州では平と糸崎に集められて、常磐線と呉線で使用されていましたが、常磐線も残る草野-岩沼間の電化が1967年に完成して全線電化が完了。C62による 「ゆうづる」 の牽引は、列車設定から2年足らずの短期間だけということもあり、人気が集中したのです。しかも、夜行列車ですので、撮影は夏の上り列車に限られるということで、殆どワンチャンスに等しかったんでしょうね。名デザイナー・黒岩保美氏による優雅なヘッドマークとともに、晩年のC62を彩った最後のステージの一つとして今ではレジェンドになっています。
その後の 「ゆうづる」 は583系も投入され、事ある度に増発して、最盛期には7往復の列車が設定されました (季節列車を含む) 。これは 「あかつき」 や 「明星」 とともに、寝台特急としては最も数が多い列車として名を馳せていますが、583系と共用という意味で言えば、 「ゆうづる」 と 「明星」 は双璧といって差し支えないでしょう。昼行特急には 「東の 「ひばり」 、西の 「雷鳥」 」 と言われていた時期がありましたが、これを寝台特急に置き換えると 「東の 「ゆうづる」 、西の 「明星」 」ということになりますか。それだけ需要があった、というか、高かったということなんですよね。特に新幹線網や航空機網も発達しておらず、夜行高速バスも全く開拓されていなかった時代、夜行列車は常に満員状態で、特急や急行、あるいは普通列車にも夜行が設定されていた時代が懐かしいです。そんな時代がまた来る・・・ことは無いですよね・・・。
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
名列車列伝シリーズ・11 「寝台特急北斗星&カシオペア+ブルトレ客車 part2」 (イカロス出版社 刊)
季刊 「j train Vol.20 「津軽海峡を渡ったC62」 (イカロス出版社 刊)
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