私を含めたアラフォー、アラフィフの世代にとって、特急 「つばめ」 というと、どうしてもJR九州の787系特急か、九州新幹線が当てはまってしまうのがツラいところですが、微かに山陽特急末期の485系と583系による 「つばめ」 が辛うじて引っかかるかなという感じで、151系電車特急も世代外ですし、客車特急の 「つばめ」 は伝説でしかありません。伝説ではありますが、やっぱり国鉄における客車特急の頂点はやはり 「つばめ」 を置いて他にあるでしょうか?
終戦後、廃墟と化した日本を立て直そうと、先ず鉄道の復旧から行われまして、同時に我が国随一の幹線である東海道本線の電化を急ピッチで行っていました。終戦の混乱もようやく落ち着いた昭和24年、戦後初の特急となる 「へいわ」 が東京-大阪間に運転を開始しまして、翌25年には 「つばめ」 と改称しました。この 「つばめ」 は、昭和5年に登場した超特急 「燕」 に端を発するいわば、国鉄のシンボルでもあり、バス事業、プロ野球チームなどにツバメのマークを用い、今もJRバスのシンボルマークにツバメを採用していますし、国鉄から離れ、現在は健康飲料メーカーのヤクルトが所有しているプロ野球チームも国鉄時代からの愛称でもある 「スワローズ」 を変えずに使い続けています。
戦後の 「つばめ」 は、スハ44系を中心とした編成で、EF58とC62のリレーで東京-大阪間を8時間で結んでいました。
東海道本線で最後まで非電化で残っていた米原-京都間の電化が完成したのが昭和31年11月19日のこと。つまり、米原-京都間の電化完成で東海道本線の全線電化が完成しました。これを機に、特急 「つばめ」 と 「はと」 の牽引機関車を全区間、EF58形とすることを決めたわけですが、今までのように蒸気機関車から出る煤煙に悩まされる必要が無くなったことから、それに相応しい色にしようと、極秘裏に一部の機関車と客車をそれまでの茶色 (ぶどう色2号) から淡いグリーン (淡緑5号) に塗り替えられ、それが全線電化開業初日の 「つばめ」 に登場したものだから、文字通り、世間をアッと言わせたのでした。後に鉄道ファンから 「青大将」 と呼ばれたこのカラーは、 「つばめ」 と 「はと」 だけに採用され、国鉄特急黄金時代の礎を築くのです。 「つばめ」 と 「はと」 は昭和35年に151系による電車特急化されますが、電車化されるまでの3年半が国鉄特急が最も輝いていた時代だと評する方も少なくありません。つまり、151系電車特急を認めていない、明治、大正生まれの癇癪持ちの意見なんだと思いますが、151系には151系なりの良さもありますし、客車特急には客車特急なりの良さもあります。一概に 「こうだ」 って決めつけるのはどうかと思いますけどね。
同じ東京-大阪間を走る 「つばめ」 と 「はと」 はそれぞれに性格を持ち合わせており、 「つばめ」 は旅を楽しむための列車、 「はと」 はビジネス客に支持された列車だと言われています。きっと、運転時間帯からそういう性格付けをされたのだと思いますが、いずれにしても当時の特急は富裕層、セレブ、エリート階級の人達しか乗れなかった列車で、21世紀の現在とは明らかに立ち位置が違いました。
「つばめ」 「はと」 に連結されていた特別二等車 (特ロ) は、当初はスロ60形、 「青大将」 塗り替え後は10系客車のナロ10形が就き、食堂車もマシ35からオシ17へと変更されています。だから昭和50年代に一世を風靡した関水金属の44系客車で、スロ60とマシ35の 「青大将」 カラーは存在しないことになります。
画像の列車を牽引するEF58 57は、昭和31年11月19日の東京発下り1番列車を牽引した名誉ある機関車で、運転開始初日は特製のヘッドマークを付けました。なお、大阪発上り1番列車の牽引は89号機がその任に当たり、東京都と大阪市の紋章を付けた五角形のヘッドマークを付けました。
「151系を特急として認めない」 という意見もあったりはしますが、東海道本線が全線電化を果たした昭和31年11月から東海道新幹線が開業する昭和39年10月までが東海道本線が最も輝いていた時代だというのは、誰もが認めるところですかね。
【画像提供】
ウ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.773 (電気車研究会社 刊)
ウィキペディア (青大将、つばめ、43系客車)