皆様からのご厚意により、様々な国鉄時代の画像を贈呈いただき、それを基に過ぎ去りし日々を顧みる 「嗚呼・・国鉄時代」 も今回で300回目となります。嫌な顔をせず (本心は嫌だったんでしょうけど) 、貴重な画像をご提供いただいた方々には本当に感謝申し上げます。
No.100はEF58牽引の客車 「踊り子」 、No.200は200回記念ということで、185系200番台の 「踊り子」 を取り上げて、今回も 「踊り子」 号ネタかなと思案していたのですが、やっぱりブルートレインが良いかなということで、数あるブルトレの画像の中でも、私の大好き (だった) な 「富士」 と東海道本線東京口屈指の名撮影地だった真鶴-根府川間の 「白糸川橋梁」 を組み合わせた昭和のブルートレインならではのコラボレーションでお届けします。
以前にもお話ししたかと思いますが、私がブルートレインの存在を知ったのは 「富士」 からでした。
それまで営団地下鉄 (→東京メトロ) 東西線と国鉄総武線と京成電車しか知らなかったもはね小僧が、あるテレビ番組に映し出されていた青い車体の列車にカルチャーショックを受け、虜になるのに時間はかかりませんでした。
その番組というのが、TBSテレビで放映されていた 「日曜特バン」 というドキュメンタリー番組で、女優の岸ユキ氏と作詞家の関沢新一氏が 「富士」 に乗り込み、レポートするという内容でした。
その前にも、幼少期に持っていた鉄道本 (機関車関連の本でした) で、寝台特急の存在は知っていたのですが、特に興味は持たず、 「そういう電車があるんだ」 という程度の興味というか認識でしかありませんでした。
この番組で初めて 「ブルートレイン」 という言葉を知り、ステンレス車体のEF81 300番台の存在を知ったのもこの番組からでした。何故かEF81の存在だけは知っていたみたいで、300番台の映像を見て、それをEF81と紹介したのに対して、 「これはEF81じゃないっ!」 と憤慨したのも覚えています。私的にEF81といえば、ピンクの車体であるという先入観を持っていましたから。それが銀色の車体を見せつけられて、 「これはEF81ですよ」 って言われても、信用しますか?
ともあれ、このテレビ番組をきっかけに 「ブルートレイン命」 となりまして、東西線や総武線はどっかに吹っ飛んでいました。
「日曜特バン」 の 「ブルートレイン特集」 はただ、漠然と観ていただけのようで、 「富士」 がどういう列車なのかというのは後になって知りました。
親にせがんでブルートレイン関連の本を買ってもらって、少しずつ知識を得ていきました。そこで 「富士」 が日本で最長距離、最長時間を走る列車だということも知りました。鉄道黎明期から昭和30年代までは、24時間近く、あるいは24時間以上かけて走る列車は数多あったようですが、さすがに昭和40年代以降はそういう列車も激減し、特急では 「富士」 のみが24時間以上かけて走る列車となりましたが、タイトルホルダーとしては、急行の 「高千穂」 というのがありました。これは特急以上に停まる駅が多くて、速度も特急に比べたら些か遅めだったことから、走行距離は 「富士」 と一緒でも、走行時間は 「富士」 以上だったので、 「富士」 は長いこと、No.2という立ち位置でした。
順位が入れ替わったのは、昭和50年3月改正でのこと。
「高千穂」 「桜島」 が廃止されたので、ようやく 「富士」 が走行距離、走行時間ともに日本最長列車となったのです。ただ、東京-西鹿児島 (→鹿児島中央) 間を通しで乗る客は皆無だったらしいという風の噂があります。よほどの乗り鉄か、各種マスコミの取材乗車かのいずれかでしょうね。
「富士」 がきっかけでブルートレインの存在を知り、 「富士」 が一押しになり、それが日本最長距離、最長運転時間を誇る列車ということで、何だか知らないけど余計に神格視した感があります。東海道線東京口のブルートレインで一番人気だったのは 「さくら」 だったと思いますが、あくまで個人的な見解ではありますけど、当時のブルトレのセンターはやっぱり 「さくら」 で、 「富士」 はNo.2かなって気がしました。 「あさかぜ」 や 「はやぶさ」 もセンターという器ではなかったような。 「みずほ」 「出雲」 も同様という認識を持っていました。関西ブルトレも東北ブルトレも人気としては今一つだったし、贔屓目を差し引いても、 「さくら」 と 「富士」 のツートップは揺るぎなかったんじゃないかって気がしました。でも、 「さくら」 よりも 「富士」 だったし、いつかは 「富士」 に乗ってみたいと憧れを抱いていました。しかし、もはね家の親類縁者に九州に住んでる人はおらず、ブルートレインが走る沿線にもそういう人はいませんでした。ましてやどっかに出かけるとなると、基本的に父親が運転する車での移動でしたので、鉄道旅なんて、夢のまた夢でしたね。
そんな私の “富士熱” は、昭和55年10月改正で醒めたような気がします。
それは、同改正で宮崎-西鹿児島間が廃止となって、 「富士」 は東京-宮崎間の列車となったからです。これもだいぶ前にお話ししましたね。元より、列車で鹿児島まで行くとなれば、新幹線で博多まで行き、そこから 「有明」 で行くのが一番早く、乗り換え無しだと、鹿児島本線経由の 「はやぶさ」 の方が距離、時間ともに短いことから、必然的に 「はやぶさ」 を選ぶことになります。 「富士」 はどちらかといえば、大分や宮崎へのアクセスに使われていて、それこそ前述のように、鹿児島まで通して乗る人は皆無でした。日豊本線は途中に 「宗太郎越え」 や 「青井岳越え」 といった峠道が点在し、それが運転時分を長くする直因となっていました。鹿児島本線にも 「田原坂越え」 といった峠道はありますけど、日豊本線に比べればかなり平坦線で、鹿児島へのアクセスはどうしても鹿児島本線経由にウェイトを置くことになります。となれば、 「富士」 の宮崎-西鹿児島間は不要になりますよね。廃止になった理由は、大人になってようやく知ることになるのですが、それでもあの55.10改正は受け入れ難い現実でした。
そうは言っても、 「ブルートレインといえば “富士” 」 の姿勢は崩さなかったんですけど、トドメを刺される事態が私を襲いました。それが昭和60年3月の改正です。 「嗚呼・・国鉄時代」 のNo.285でも取り上げていますが、東海道本線東京口のブルートレインの牽引機関車がEF66に置き換わったんです。これは、 「はやぶさ」 にロビーカーを連結することになり、編成増によって牽引定数がEF65のそれを上回ることから、予てより噂のあったEF66がその任に就くことになりまして、 「はやぶさ」 だけでなく、 「富士」 「あさかぜ」 「さくら」 「みずほ」 も併せてEF66に置き換えられました。また、この改正を機に、 「さくら」 と 「富士」 のヘッドマークが一新され、 「富士」 は戦前の特急に使用された富士山を模ったマークに取って代わったんです。でも、私はそれがたまらなく嫌でした。私的には、 「富士」 のヘッドマークは、画像のような丸形のマークが一番良かっただけに、これは大ショックでして、同改正以降、完全に “富士熱” は醒めてしまいました。
2015年、 「北斗星」 の廃止によって、日本の線路から青い車体の列車が消えてしまいましたが、この手の画像をご覧いただいて、ブルートレインの魅力を今一度、引き起こして欲しいなと切に願います。
【画像提供】
タ様