中央・総武緩行線の103系です。毎度おなじみ “きいろいでんしゃ” ということになりますが、一見すると、シールドビーム二灯化されていない “一つ目小僧” だし、冷房改造車だと誰もが思うでしょう。私も最初にこの画像を戴いたときはそう思いました。しかし、よく見ると、側面窓に枠が見えます。あれっ!? もしかして、これは 「し・さ・く・れ・い・ぼ・う・し・ゃ・あぁぁ~~~っっっ!!!???」
昭和30年代から40年代初頭にかけて、国鉄の車両は101系に代表される新性能電車がどんどん製造されて投入されていましたが、家庭では普及し始めていた冷房に関しては、特急用に限られていて、急行形ですら冷房が取り付けられていない時代でした (その頃はサハシの食堂部分だけでした) 。しかし、 「3C時代」 という言葉に象徴されるように、社会生活のレベルも向上し、鉄道車両についてもその時代の流れとともに冷房が不可欠の状態になり、通勤形車両にも冷房を搭載する機運が徐々に高まってきました。余談ですが、急行形もそれまで半室食堂車の食堂部分だけと先ほどお伝えしましたが、昭和39年からは一等車 (→グリーン車) に、昭和43年からは二等車 (→普通車) にも冷房が取り付けられるようになりました。
日本で優等列車用車両以外に冷房装置を取り付けたのは、昭和34年に登場した名古屋鉄道の5500系電車がその最初とされており、昭和43年には京王帝都電鉄 (→京王電鉄) の5000系電車に冷房を取り付けまして、これが最初の多扉車の冷房車ということになります (名鉄5500系は2扉車) 。
しかし、特急形や急行形など、定員が少なく乗降にさほど時間がかからない車両であれば、容易に冷房が取り付けられましたが、通勤形となるとそう簡単にはいきませんでした。というのも、特急形や急行形と違い、乗車定員が桁違いに多い点、扉数が多く乗降が頻繁に行われているという点、その度にドアを開け閉めするわけですから、開閉の度に冷気が逃げ出してしまい、通勤車両にはより冷房能力の強いクーラーを乗せる必要がありました。しかし、家庭用クーラーにも同じ事が言えますが、当時のクーラーは今と比較にならないほどのバカ高。鉄道車両にクーラーを載せるということは、それだけ製造コストもかかることを意味し、同時にクーラーを作動させる電源なども視野に入れなければなりませんが、当時の国鉄は通勤冷房に関しては慎重居士になっていたのが現状でした。
こういった背景の中、首都圏の通勤地獄は熾烈を極めており、混雑緩和がなかなか進行しない状況にありましたが、混雑緩和が進捗しないのであれば、せめて通勤時は快適に過ごしてもらおうというサービスの一環として、ついに通勤形車両にも冷房を取り付けることが決まりました。
名鉄の5500系、京王の5000系、そして国鉄の特急形電車も天井分散式ユニットクーラーがメインで搭載されていましたが、試験結果をフィードバックした上での将来的な非冷房車への搭載改造を考慮したとき、比較的リーズナブルな天井集中式の方がコスト的にも良いだろうという判断で、通勤車両の冷房には集中式が採用されることになりました。
まず、東京と大阪で実際に現車にクーラーを取り付けていわゆる 「現車試験」 を行うことになり、東京では103系を、大阪では113系を選定して比較検討を実施しました。103系は新造ですが、113系は新造ではなく既成車を改造することで落ち着きました。この辺も東京と大阪で温度差があるんだなって思いました。
103系の試作冷房車は昭和45年に登場し (昭和44年度第4次債務) 、前述のように各車で搭載するクーラーは異なっていました。
クハ103-179 三菱AU75X 2本ダクト 扇風機併用 MG (MH129-DM88)モハ103-279 三菱AU75X 1本ダクト 扇風機なしモハ102-434 三菱AU75X 1本ダクト 扇風機併用サハ103-306 日立AU74X 2本ダクト 扇風機併用モハ103-280 日立AU74X 1本ダクト 扇風機なしモハ102-435 日立AU74X 1本ダクト 扇風機併用サハ103-307 日立AU74X 2本ダクト 扇風機併用モハ103-281 東芝AU73X 1本ダクト 扇風機なしモハ102-436 東芝AU73X 1本ダクト 扇風機併用クハ103-178 東芝AU73X 2本ダクト 扇風機併用 MG (MH129-DM88)いずれも池袋電車区 (北イケ) 配属青字はクハ103-179に搭載されたMGの給電範囲ピンク字はクハ103-178に搭載されたMGの給電範囲
この試作冷房車は、山手線で営業運転に入り、利用客からは大好評をもって迎え入れられました。冷房装置については、比較検討の結果、三菱製を採用することになり、これが通勤形と近郊形に広く採用されるAU75型のプロトタイプとなるのです。MGについては当初はクハに備え付けられていたんですね。量産型の車両はM’車 (モハ102、モハ112、モハ114など) に搭載するのがお約束になっているようですが、搭載したMGは210kVAのものだった関係でしょうか、比較的床下がスカスカのクハに取り付けたものと思われます。サハでも良かったのかもしれないですけどね。その関係で艤装も大きく変更されて、クハの自重も増えています。即ち、スリムだったクハにMGという余分な贅肉が付いちゃったから、7.4tデブになったということです。
この試作冷房車は、単に冷房を取り付けただけでなく、103系にとっていくつかのエポックメイキングなアイテムも盛り込みました。
その中でも特に有名なのが、103系としては初めてのユニットサッシ窓が採用されました。これは、冷房装置搭載に伴って、冷房効率の向上が主な目的とされていますが、同時にあらかじめ出来上がったサッシ窓をそのまま填め込むだけの工事で済むので、製造コストが軽減されるという利点もあります。このユニットサッシは試作冷房車を嚆矢に、次のロット以降、標準装備されますが、一つ目小僧でユニットサッシは178と179の2両のみとなります。
それから、冷房装置が取り付けられたことで外気からの空気を取り入れる必要が無くなったことから、当時の103系のアイデンティティでもあった連結器上部の通風口 (もはね用語で 「ちょびひげ」 ) が廃止されて、フラットな前面形状が出来上がりました。
103系と113系の試験結果を基に、翌年から本格的に通勤車両の冷房化が始まりますが、当初はいずれも改造で、113系と101系に冷房装置を取り付ける工事が実施されました。新製時から冷房装置が取り付けられるようになったのは昭和47年の113系1000番台からで、103系は昭和48年落成分から冷房装置が標準装備となりました。試作冷房車登場から3年が経過していました。
登場後、編成を崩すこと無かった試作冷房車ですが、昭和49年に転機が訪れます。それは山手線と京浜東北線のATC化です。
ATCの正式な使用開始は昭和56年からですが、それまで準備段階ということで、山手線と京浜東北線ではATCの工事が行われ、それに対応する先頭車も全て差し替えなければなりません。こうして登場したのが高運転台のクハ103で、順次、山手線と京浜東北線に投入されます。余剰となった低運転台のクハは、他線区に転用されますが、量産冷房車と構造が異なる試作冷房車を将来的な転配を考慮して、他の冷房車と構造を同一にする必要があるなどから、量産冷房車と同じ仕様に改造する、 「量産化改造」 が昭和53年に実施されました。
まず、クーラーを全車AU75B型に載せ替え、クハに搭載していたMGを量産車と同じ160kVAのものに換装してモハ102に移植し、車体側面に行く先表示器を装備しました。また、それまでは手動式だったクハの行く先表示器もこれを機に電動式へと変更されました。
この結果、先頭車はヘッドライトの形状からすぐに試作冷房車だと判りますが、中間車は量産冷房車と判別が難しくなりました。
そして試作冷房車の編成 「臨1」 編成のクハがATC仕様に差し替えられ、クハ103-178と179は池袋電車区所属に変更はないものの、赤羽線に転じ、程なく黄色に塗り替えられました。この編成は、先頭こそ冷房車ですが、中間車は非冷房車だったため、MGを装備しておらず、冷房が使えないという皮肉な編成になってしまいました。量産化改造されることなく、クハにMGを残していたら (冷房は) 使えただろうに。そういう編成は当時、山手線にも京浜東北線にも存在していました。
昭和54年、長らく池袋電車区に籍を置いていたクハ103-178と179は津田沼電車区に転じ、103系投入が始まった中央・総武緩行線で活躍を始めます。それが画像になるわけですが、中間車は在来車の冷房改造で、しばらく活躍を続けることになります。178は昭和58年に前照灯をシールドビーム2灯に改造されますが、179はそのまま “一つ目小僧” のまま残り、昭和60年に特別保全工事を実施した際にようやくシールドビーム2灯化工事が実施されます。その前年に一時期的に豊田電車区に貸し出されて、黄色のまま武蔵野線に転じたことがありました。
民営化後も習志野電車区に残り (津田沼電車区は昭和61年9月に組織変更に伴って習志野電車区と名称を変更) 、178は仙石線の仙台-あおば通間の延伸開業による訓練用として貸し出し名義であるものの宮城野電車区へと転じ、平成12年に廃車になりました。179は平成7年に前面強化工事、さらにATS-Pを装備して (これは178も同様) 、運行表示幕が従来の白地黒文字から黒地白文字に変更されて、やはり平成12年に廃車となっています。
一方、中間車については、クハが山手線から赤羽線、さらに中央・総武緩行線に転じてからもしばらくはその編成を崩さずに山手線で運用されていましたが、山手線の205系化が佳境を迎えた昭和62年度末に編成が崩されてバラバラに生き別れになってしまいます。
このうち、モハ3ユニットは浦和電車区に転じて京浜東北線に、その後、モハ103-279と281、モハ102-434と436は豊田電車区に転じて、武蔵野線 (もしくは青梅・五日市線?) で活躍しますが、モハ103-281+モハ102-436はさらに平成16年に京葉電車区に転じて京葉線が終の棲家となります。モハ103-279+モハ102-434はそのまま豊田で廃車になりました。モハ103-280+モハ102-435はしばらく京浜東北線で活躍していましたが、平成9年に習志野に復帰してそこで廃車になりました。
サハ2両は昭和63年に川越電車区に転じて埼京線で活躍しますが、埼京線の205系化によって306は1年ちょっとで浦和に転じ、さらに松戸電車区に転属して常磐線で活躍、そこで廃車。307は同じく浦和に転じた後、京葉電車区に移ります。10両の試作冷房車のうち、一番長命だったのがサハ103-307で、平成17年まで在籍していました。
ところで、画像の車両は178と179、どちらでしょう?
撮影場所は御茶ノ水駅のようですが、それだけでは判別は難しいです。クハの隣がモハ103になっていますので、179かなと思ったりします。
当たり前の話ですが、日本の旅客用鉄道車両はほぼ100%、クーラーが載せられています。しかし、昭和40年代前半は載ってないのが当たり前でした。その概念を取っ払って、 「通勤車両の冷房化」 という礎を築いたのは他ならぬ、この103系や113系であることを忘れてはなりません。
【画像提供】
ノ様
【参考文献・文章引用】
鉄道ピクトリアル No.745、764 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.541、654 (交友社 刊)
キャンブックス 「103系物語」 「111・113系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)