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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (243)

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機関区に佇むEF53の姿ですが、何故かパンタグラフが下枠交差型のPS22となっています。勿論、現役時代のEF53でPS22を装備した機関車はありません。ではこれは一体・・・? 察しの良い方ならもうお判りかと思いますが、種を明かせば、これはEF53ではなくEF59。もっとも、EF59はEF53から改造された車なので、 「当たらずも遠からず」 といったところでしょうか。では、何でEF59がEF53に戻されたのかと申しますと、今から29年前の夏に、当時の国鉄沼津機関区で行われたイベントにおける目玉であり、このイベントが火付け役となって、後に「茶色い機関車ブーム」 が巻き起こることになるのです。
 
時は昭和61年、沼津機関区開設100周年を記念したイベント、 「Locomotive Fair in 沼津」 が開催されました。丹那トンネルが開通するまで、東海道本線は御殿場を経由するルートだったのはご存じかと思いますが、この区間には 「箱根越え」 と称する急勾配とトンネルが連続し、輸送の中枢となる機関庫が必要とされ、明治19年12月に沼津機関庫が開設、昭和11年に沼津機関区と改称された後は、新鶴見、稲沢第二、米原、吹田第二と並び称される東海道本線 (特に貨物機) の一大電気機関車基地として名声を築きました。しかし、本当の100周年を迎えられず、同年11月のダイヤ改正で沼津機関区は廃止となり、民営化に向けて合理化が一層進むこととなります。
 
沼津機関区ではこの開設100周年を記念して、夏休みの期間中、車両展示会とメインとした現業機関開放のイベントを実施することとなったのですが、当時はまだ、古い機関車が彼方此方に残っていて、また、貨物列車の大幅削減によって、機関車も暇を持て余していました。それに目をつけて、 「可能な限り、古い機関車をメインに集める」 ことを目的として、各鉄道管理局に掛け合いながら、寄せ集めることになりました。今だったら、会社間の笧等々で、なかなかこれほど大規模に機関車等の車両を集めることは不可能ですが、当時はまだ大らかだった時代です。
 
実際に展示された車両は下記の通りです。
 
ED16 1 (大宮工場)             7/20~8/10
EF59 1 (広~EF53 8に復元)      7/20~8/17
EF55 1 (高二)                8/ 5~8/12
EF58 170 (竜)               7/20~8/17
EF15 184 (竜)               7/20~8/17
EF60 95 (沼~ぶどう色に塗り替え)   7/20~8/17
EF60 70 (沼~庫内で分解展示)     7/20~8/17
EF62 3 (篠)                 7/20~8/17
EF30 17 (門)                7/20~8/17
ED75 37 (水)                7/20~8/17
DD13 1 (大宮工場)             7/20~8/10
DE15 1541 (稲一~ラッセルヘッド付き) 7/20~8/17
DD16 1 (篠)                 7/20~8/17
DD51 824 (稲一)              7/20~8/17
DD13 225 (静)               7/20~8/17
C56 160 (梅)                8/14~8/17
クモヤ22112 (浜松工場)          7/20~8/17
クモヤ90052 (静シス)            7/20~8/17
クモヤ145-601 (静シス)           7/20~8/17
クモハ119-17+クハ118-5 (静トヨ)   7/20~8/17
クモヤ495-1+クモヤ494-1 (金サワ)   7/20~8/17
オエ70 21
オヤ10 1
オヤ10 2
オヤ41 1
オヤ42 2
オヤ61 55
オヤ61 97
ソ85
ワサ2
 
とまあ、今から考えたらもの凄い豪華メンバーだったわけですが、これも前述のように、59.2改正以降、貨物列車が大幅に削減されて、機関車が遊休化していたから集められたといっても過言ではないでしょう。それだけに、各エリアでは機関車同士の “夢の顔合わせ” も見る事が出来ました。例えば、門司のEF30と水戸のED75。九州には60Hz用の300番代が在籍していましたが、EF30とED75は本来、顔を合わすことがないというか、周波数の違いから顔を合わせられない組み合わせになります。
EF60 95は廃車予定の機関車で、新製当時は茶色だったことから、自区の車両にも目玉をおこうという企画の中で茶色に塗り替えられました。
 
当初は、蒸気機関車を数両・・という提案もあったようですが (特に沼津とは縁が深いC51やD52など) 、当時の梅小路保存機は備品扱いになっているのが殆どで、長距離を回送するのはとてもじゃないけど無理ということで、あえなく企画倒れに終わりましたが、展示機一覧にもあるように、C56が参加することになりました。因みにC56は沼津に配属された記録はありません。
 
さて、EF53ですが、初の国産大型機でもあるEF52をベースにして、旅客専用機であるために、歯車比を下げて高速性能の向上を図りました。デビューは昭和7年ですが、新製後すぐに東京機関区に配置されて、特急 「燕」 や 「富士」 などを牽引しました。この優秀な性能と信頼性が評価されて、昭和9年には16~18号機がお召し列車牽引機に指定されて、後のEF58 61が登場するまでお召し列車の牽引の大役を果たしました。
戦後、客車暖房用の蒸気発生装置を備えたEF58が登場すると、EF53は東海道本線から高崎線に転じ、荷物列車や小列車の牽引が主な日課となりました。
昭和38年、それまでD52が担っていた山陽本線瀬野-八本松間 (通称 「セノハチ」 、正式名称は 「大山峠」 ) の後補機を無煙化するため電気機関車が必要となり、比較的数がまとまって残存していて、状態の良いEF53が改造対象となり、EF59になりました。当初は一部分が改造される予定でしたが、結果的に全機が改造されまして、昭和43年を最後に、EF53としては形式が消滅してしまいます。
 
以降、 “セノハチの番人” として昭和50年代のEF67登場まで長く活躍しましたが (後継車として期待されたEF61 200番代は車両の不具合などで早々にリタイアしたことから、結果的に老体に鞭打って頑張りました) 、その中からEF59 1が旧姓のEF53 8に戻されて沼津のイベントに参加しました。機番のプレートは沼津機関区が用意したもので、在庫が無かったせいでしょうか、パンタグラフはPS14 (本当はPS10A) には換装出来ませんでした。
 
119系はいわゆる 「するがシャトル」 用に静岡運転所 (静シス~現在のJR東海静岡車両区) に転属された車両で (戸籍上は豊橋のまま) 、富士山をデフォルメした前面デザインと “SS” と描かれた車体側面が大きな話題を呼びました。
 
これに触発されたのか、高崎鉄道管理局では、高崎第二機関区の敷地内に機関車の博物館を建設する企画を具申、先立って、各地から電気機関車を集め始めました。終いには現役機のEF64 1001とDE10 1705を茶色に塗りたくるなど、やや暴走めいた車両のかき集めが賛否を呼びました ( “賛” の方が多かったと思いますけどね) 。しかし、バブル崩壊とともにその計画も頓挫し、車両は一時、放置プレイと化していましたが、大部分が平成11年に開設された碓氷峠鉄道文化むらに継承されて保存されています。この中にはEF59 11から旧姓に戻ったEF53 2が保存されているほか、沼津での展示を終えたEF53 8がEF59 1として碓氷峠・・で保存されています。
 
分割民営化を前に、国鉄はあの手この手で増収を図っていましたが、その中でもこの沼津機関区開設100周年記念イベントは後々の機関区開放イベントのケーススタディになった画期的なイベントでした。
 
【画像提供】
タ様
【参考文献】
鉄道ファン No.306 (交友社 刊)
ウィキペディア (沼津機関区、国鉄EF53形電気機関車、碓氷峠鉄道文化むら)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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