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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (226)

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イメージ 1
随分とセピア色がかった、味のある画像ですが、方向幕からも判るように、山手線の103系です。ホームの上にモノレールの軌条が見えますので、ここは浜松町駅かなと思います。
2年前でしたっけ、山手線103系投入50周年を記念して、E231系に黄緑のラッピングを施して 「みどりの山手線」 を運転したのは。それだけ「山手線=黄緑一色」という図式が東京では浸透していたということになります。
 
画像の車両は、連結器上部にある通風口 (もはね用語で 「ちょびひげ」 と言います) が埋められていないオリジナルの103系ということになりますが、撮影は昭和50年とのこと。撮影前年にATC対策を施したクハを中心にした冷房付き新車が投入され始めつつあった頃で、過渡期とまではいかないものの、新旧のクハが入り乱れていた時代になります。反対側 (内回り) はモハ103-372と読めます。調べてみると、昭和48年に落成して当時の池袋電車区 (北イケ) に配置されました。相棒はモハ102-528。製造が編成単位なのか、ユニット単位なのかは定かではありませんが、山手線に投入された新製冷房車の第一陣でしょうね。
 
当時の国鉄の慣例として、通勤形電車の場合、まず新車は山手線や京浜東北線に投入して、余剰となった旧車を他線区に転属させるというフローが一般的でした。この頃になると、各線区にも101系や103系といった新性能電車が続々と投入されていましたので、地方でまだ頑張っていた旧形国電を置き換える名目で新車を製造するケースも出始めてきました。この結果、首都圏では 「103系を103系で置き換える」 などのパターンが出始めてきており、冷房付きの新車を山手線と京浜東北線に投入し、非冷房の車両を他線区に持って行く。首都圏なら青梅線や五日市線、横浜線が挙げられますし、昭和50年代中盤以降になると南武線や鶴見線、首都圏ではありませんが仙石線も含まれるようになります。首都圏の他、関西地区への転属も頻繁に行われており、大阪環状線や京阪神緩行、阪和線や片町線、関西ではありませんが中央西線名古屋口などへ転属させて、向こうで残っていた旧形国電を置き換えたりしました。名古屋鉄道管理局や大阪鉄道管理局、さらには天王寺鉄道管理局は101系や103系とはいえ、常に東京地区で活躍した中古品を押しつけられる格好になり、 「何で新車はいつも東京ばかりやねん・・?」 と不満も多かったそうです。大阪環状線や京阪神緩行にも冷房付き新車は入っているんですけどね。因みにクハ103-1やクハ103-501、さらにはサハ103-1は新製配置は山手線でしたが (クハ103-501は京浜東北線に投入) 、後に京浜東北線に転じた後、関西に行っていますから、顕著な例と言えるでしょう (モハユニットは廃車まで首都圏で活躍) 。
 
幼少の頃、極々偶に山手線に乗ったり見たりしたことがありましたが、記憶に残っているのは先頭車は常にATC車。低運転台の初期形を先頭にした編成は記憶としては最後まで見ることはありませんでした。山手線や京浜東北線の場合、先頭3両が冷房車で、中間4両が非冷房車という編成が多数派を占めていましたが、そういう事情を知らない幼き私は、中間の非冷房車を見る度に 「もしや・・」 と期待を膨らませていて、両端で冷房車を見て 「あ~あ」 と愕然としたことも一度や二度ではありません。
山手線においては、完全にATCクハに統一されるのは昭和53~54年頃だったと記憶していますが、当時はさほど騒がれず、当然のことながら 「低運転台クハ103、ラストラン」 もありません。今だったら、大騒ぎでしょうね。
 
やっぱり、103系はこのツラでないとね・・・。昔は嫌いだったけど。
 
【画像提供】
梅ちゃん先生様
【参考文献】
キャンブックス 「103系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)

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