京橋駅で京阪電車を撮りまして、今度は中之島線に乗ります。
6年前に京阪本線、鴨東線は全線完乗を済ませていますが、その時はまだ中之島線は開業していませんでした。
その時乗った電車がこれ。現存する京阪の車両では最古参にあたる2200系。
1964年登場だから、今年50周年ということになります。
京阪本線の天満橋から淀屋橋まで延伸開業したのが1963年のこと。それまで京阪電車は2扉の車両が主力でしたが、増え続ける乗客に対応しきれなくなったため、扉数を増やし、加減速優れた車両を、ということで製造されたのが2200系ということになります。
やって来ました中之島。画像に写っている橋はあみだ池筋に架かる堂島大橋といいます。
中之島は、堂島川と土佐堀川に挟まれた中洲で、ここに大阪市役所を始め、大阪の名だたる商業施設が集約されています。誰が歌ったか、 「中之島ブルース」 っていう歌、ありましたよね・・・。
堂島大橋から “本土” の方を眺めます。
画像右端が大阪国際会議場、通称 「グランキューブ大阪」 、一つ建物を経て、左端にある茶色い建物がリーガロイヤルホテルかと思われます。
中之島探訪はここまでですが、このままあみだ池筋を北に向かって歩けば、大阪駅は至近だったんですね。でも、土地勘が無い私はそれに気づかず、再び京阪中之島線に乗りまして、京橋駅に向かう事にしました。これが運命の分かれ道でした。
中之島駅で私を待っていたのは、初代3000系と並び称される昭和京阪の代表的車両、5000系です。
1800系や1900系など、昭和京阪を彩った名車両はいくつもありますが、私が京阪の名を知ったのは、やっぱり初代3000系とこの5000系をおいて他にはありません。それだけこの2車種のインパクトは大きかったのです。
京阪本線の天満橋-淀屋橋間が延伸開業して、乗客が更に増えたというのは前述した通りですが、昭和40年代に入ると、さらに乗客の数は増えまして、2200系や2400系でも対応しきれなくなりました。編成を増やしたくても、当時の京阪は京都と大阪で路面電車との平面交差があり、その関係で架線電圧が600ボルトに抑えられていたため、それ以上編成を増やそうものなら、様々な電力事故が想定され、最大でも7両が限界でした。あれこれ考えた末に辿り着いたのが 「扉数を増やして乗降の時間を短くしよう」 というもの (掻い摘んでいますが) 。こうした発想から5000系は開発されるわけですが、言うまでもなく、日本初の5扉車。東京メトロ03系や東武20000系列、JR東日本205系やE231系の6扉車など、多扉車は今でこそメジャーになっていますが、その嚆矢が京阪5000系であります。しかし、東京メトロ03系やJRのE231系などは、編成の一部が多扉車になっているのに対し、京阪5000系は、編成の全てが多扉車になっているというのが大きな特徴で、且つ日本では唯一の存在であります。
これが5000系の車内。
乗降用扉の部分に座席が配されていますが、5扉がフルに活用されるのは朝夕のラッシュ時だけで、日中は2枚目と4枚目の扉部分に座席を配置して扉を閉め切り、3扉車として使用します。5000系の画像をご覧いただいてもお判りのように、2枚目と4枚目の扉が閉まっています。
座席の配置は自動で昇降出来る構造で、これも日本では唯一のもの。5扉、自動座席昇降機能など、特殊装備が多い事から車体をアルミにする事で車両の重量を相殺しています。
京阪5000系はその後もリニューアル工事を行いながら、現在も第一線で活躍しています。
京橋駅で 「京阪電車の旅」 を終えまして、また、次なる目的地を探して彷徨うことになります。