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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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JNR LEGEND (627)

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「試運転」 の表示を掲出して、スカイブルーの103系が駅に佇んでいます。
見るからに 「真新しい」 感が出ていますけど、出来立てホヤホヤであるというのは説明しなくても判るかと思います。
提供していただいた写真の裏面に編成表が記されていました。
クモハ103-7
 モハ102-80
クモハ103-8
 モハ102-81
 サハ103-79
 サハ103-80
 サハ103-81
クモハ103-9
 モハ102-82
 クハ103-77
これを手がかりに調べてみると、 “予想通り” 、京浜東北線向けの車両であることが判りました。画像の車両はクハ103-77になりますが、この段階ではまだ片栓構造車の500番代はまだ世に出ていません。
この後、配置区である蒲田電車区 (東カマ~現在のJR東日本大田運輸区) に回送されて行くことになりますが、撮影場所が何と総武本線の下総中山駅ということで、 「何で京浜東北線用の車両が総武線で試運転を行うの?」 という疑念が浮かび上がります。撮影者様の記憶違いじゃ無いかって、最初は勘ぐったんですが、この編成の製造メーカーを聞いて何となく納得しました。

画像のクモハ103-7~9、モハ102-80~82、サハ103-80、81、そしてクハ103-77を始めとする京浜東北線用103系の第一陣37両は、汽車会社東京製作所で製造されました。 「汽車会社?」 と思われる方も少なくないと思いますが、正しくは 「汽車製造株式会社」 と言いまして、鉄道黎明期から存在していた由緒正しき鉄道車両製造メーカーです。そして当然のことながら、日本初の民間鉄道車両メーカーになります。残念ながら、昭和47年に川崎重工に吸収されて姿を消しますが、汽車会社設立にあたっては、新紙幣の肖像に採用されて話題になった渋沢栄一も名を連ねていました。
本社は大阪で、現在の此花区島屋に本社屋があったそうです。明治34年に東京の本所にあった平岡工場と合併して、後の東京支店が設立されるのですが、東京の工場は後に現在の江東区南砂に移転します。ここでも 「えっ!? 砂町に鉄道車両メーカーッ?」 驚かれる方がいらっしゃるかと思いますが、 現在の南砂2丁目にありました。跡地には大規模な団地が建っていますけど、昔日の面影は全くありません。

「総武線と離れてるのに、どうやってロールアウトした車両を持ってたんだろう?」 と疑念を抱かれる方もいると思います。でも、ちゃぁ~んと、線路に乗った状態で新製車両は発注先の鉄道会社に発送されたのですよ。
その汽車会社東京の脇には線路が通っています。今もその線路は生きています。そう、総武本線貨物支線、通称 「小名木川貨物線」 の線路です。今は新砂にあるレールセンターから発送されるロングレールの輸送に使われるだけになってしまいましたが、昭和世代の小名木川貨物線は越中島貨物駅、小名木川貨物駅を擁した重要な貨物ルートであると同時に、汽車会社東京で製造された車両を送り出す連絡線の役割も果たしていました。私鉄車両は機関車が牽引する甲種鉄道車両輸送で送られますが、国鉄車両はその殆どが自力回送になります。そして新小岩操車場で小休止した後、新金線や総武本線を経由してそれぞれの配置区へと回送されていきます。画像の103系が総武線で試運転を行う理由がお判りいただけたかと思います。厄介だったのが営団地下鉄 (→東京メトロ) の5000系電車。東西線用の5000系も何両かは汽車会社で製造されたのがありますが、汽車会社と塒である深川検車区は目と鼻の先。にもかかわらず、わざわざ大回りして深川検車区へと回送されていきました。これは、小名木川貨物線と深川検車区の入出区線とで線路が繋がっておらず、ダイレクトに回送出来ないための措置で、多分ですけど、汽車会社で落成した5000系はそれこそ、小名木川貨物線から新小岩操車場まで行き、総武本線経由で中野まで行って、そして東西線に入ったものと思われます。5000系は甲種輸送ではなくて自力回送だったと聞いたことがあります。 「自力回送ではなくて、トラックによる陸送の方が早いんじゃない?」 と思うほど、汽車会社東京製作所と深川検車区は超至近だったりします。

私が物心ついた時にはもう、汽車会社はありませんでしたが、親からはよくその話は聞かされていました。工場を囲むようにして都電も走っていました。砂町を走った都電は汽車会社撤退と同じ年に廃止されていますが、都電の線路が残されていたのは何となく記憶にあります。また、小名木川貨物線と汽車会社との受け渡し線路とは別に、もう一つ、枝分かれする線路があって、その線路は明治通りを交差していました。幼少の頃の私はその線路が汽車会社の受け渡し線路かとずっと思っていたのですが、単なる倉庫への線路でした。今のニトリ辺りにその倉庫がありました。
なお、汽車会社の大阪本店は、目の前が安治川口駅ですので、その当時は安治川口から受け渡しの線路があったんでしょうね。

さて、103系の歴史はクモハ103抜きにしては語れないほど、クモハ103の出現は103系の製造あるいは投入過程にあって、重要な意味を為すことになります。
山手線に投入していた頃の103系は、クハ103、モハ103、モハ102、そしてサハ103の4形式のみで、番号も均等になっていましたが、次なる投入線区として京浜東北線が浮上した際、一つの問題点が浮かび上がります。それは車両基地の収容能力でした。
当時の京浜東北線用車両は、蒲田電車区の他に、浦和電車区 (東ウラ~現在のJR東日本さいたま車両センター) 、そして下十条電車区 (東モセ~後のJR東日本下十条運転区) の3ヶ所に配置されていましたが、このうち、蒲田と下十条は、10両編成がすっぽり収まるスペースではなく、特に下十条の検修庫が8両分しか収容出来ないので、分割して留置せざるを得ない状況下にありました。京浜東北線は旧型国電を使っていた時代から殺人的な混雑が問題視されていたため、103系投入の計画が持ち上がった段階から10両編成で投入するつもりで発注をかけようとしたのですが、前述の下十条と蒲田の関連から10両固定編成でははみ出してしまうので、急場凌ぎ的な発想で7+3の編成にした経緯があります。 “タラレバ” になりますが、もし、下十条と蒲田が10両編成すっぽり収まるスペースがあったら、あるいは分割編成にするにしても4+6にしたら、クモハ103は製造されなかったと思いますし、その後の103系の歴史も大きく変わっていたことでしょう。
クモハ103の登場によって、モハ103とモハ102の番号差は155となりまして、ひいてはモハ102に2000番代が登場する事の発端にもなってしまうのです。

ただ、クモハ103は後々の大都市通勤路線以外のローカル線、例えば青梅線、五日市線、南武線、
仙石線などでその存在感を存分に発揮することになりますが、京浜東北線の次に投入された常磐線快速に何故クモハ入り7+3の編成が採用されたのかは謎です。

画像の編成ですが、 「京浜東北線一筋」 の車両はなく、クモハ103-7、8、モハ102-80、81、サハ103-79、クハ103-77が昭和52年に神領電車区 (名シン~現在のJR東海神領車両区) に転属して、中央西線名古屋口の新性能化に一役買いまして、民営化後はJR東海籍になります。そしてクモハ103-9とモハ102-82は昭和53年に豊田電車区 (西トタ~現在のJR東日本豊田車両センター) に転属したのも束の間、すぐに陸前原ノ町電車区 (仙リハ~現在のJR東日本仙台車両センター宮城野派出所) へ再度転属して仙石線が終の棲家になります。そしてこの中で一番流浪なのがサハ103-80。昭和53年に鳳電車区 (天オト~後の日根野電車区、現在のJR西日本吹田総合車両所日根野支所) に転属して阪和線で活躍しますが、民営化直前に東京に呼び戻されて豊田電車区に転属、民営化後の平成2年に習志野電車区 (千ラシ) に転属して総武・中央緩行線を走ることになり、新製後の試運転以来、実に25年ぶりに総武線の線路を走ることになりました。そしてその2年後に浦和電車区に転属して、古巣の京浜東北線で最後の活躍をすることになります。

「きいろいでんしゃ」 が走る総武線にスカイブルーの電車が来たら、そりゃ驚くよな・・・。

【画像提供】
ウエ様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.541 (交友社 刊)
キャンブックス 「103系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)
ウィキペディア (汽車製造、大田運輸区など)



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