平成4年、初のミニ新幹線として開業した山形新幹線。奥羽本線福島-山形間を在来線の1,067mmから1,435mmに改軌して、新幹線区間と在来線区間をダイレクトに結ぶ、いわゆる 「新在直通」 を実現した立役者なんですけど、山形直通の列車に付けられた愛称が 「つばさ」 でした。 「つばさ」 といえば秋田行きの特急なのに、何で山形新幹線の列車に・・? とその時は思いましたが、今はすっかり 「山形新幹線=つばさ」 という図式が定着しました。しかし、今回は山形新幹線の話ではありません。我々の世代にとって、 「山形行きの列車」 といえば、まず 「やまばと」 を思い浮かべませんか? そこで今回は特急 「やまばと」 にスポットを当てたいと思います。
奥羽本線に初めて特急が走ったのは、昭和36年10月の改正からでしたが、キハ82系気動車を使って大々的に特急を大増発させたのは皆さんもご存じの事かと思います。奥羽線向けの特急には 「つばさ」 の愛称が与えられたわけですが、 「つばさ」 は、 「おおぞら」 や 「まつかぜ」 、 「白鳥」 などとともに、キハ82系を使用した特急の第一期生になります。福島-米沢間には板谷峠があり、キハ82といえど、補機無しで板谷峠を越えることは出来ず、EF16形電気機関車 (後にEF64→EF71) の力を借りて峠を行き来することになります。 「やまばと」 は 「つばさ」 から遅れること3年後の、昭和39年10月から運行を開始しました。まぁ、事実上の 「つばさ」 の姉妹列車と言っても過言ではないんでしょうね。
こちらが気動車特急時代の 「やまばと」 。後述しますけど、気動車特急だったのは4年だけですので、ある意味で貴重といえば貴重。
「やまばと」 は、昭和40年10月から山形行きに加えて、会津若松行きを設定しました。郡山までは12両編成で、郡山で山形行きと会津若松行きに分割されてそれぞれの目的地に向かいました。なお、運転開始当初は食堂車付きでしたが、会津若松行きを設定してから双方で食堂車は連結されず、当時の特急としては珍しい存在でした。
画像をよく見ると、かなり編成が長いことが判りますので、会津若松行きを連結した昭和40年以降の撮影と思われます。
なお、山形行きと会津若松行きとの区別を容易にするため、会津若松行きを 「会津やまばと」 と呼称していました。
昭和43年10月のダイヤ改正で、 「やまばと」 は485系で電車化されましたが、同時に会津若松行きが独立して、 「あいづ」 を名乗ることになります。実際にはその半月前から会津若松行きの 「会津やまばと」 が一足先に電車化されておりまして、ヘッドマークの 「やまばと」 の上に小っちゃい字で 「会津」 と付け刃的に足されていたのが印象的でした。
一方、 「つばさ」 がそのまま気動車を使い続けたのは、山形以北が非電化だったためです (全線電化完成は昭和50年のこと) 。
電車化当初は、仙台運転所 (仙セン~現在のJR東日本仙台車両センター) の管轄で、食堂車の連結も復活しましたが、 「あいづ」 と共通の9両編成で、同じ仙台管轄で12両編成の 「ひばり」 や 「やまびこ」 とは共通運用が組めませんでした。さらに一等車 (→グリーン車) は上野寄りに連結されるのがお約束だったため、クロ481が先頭を飾っていました。
画像はその時の撮影では無いと思いますが、ボンネット型のクハ481であることから、仙台車を充当しています。
昭和47年3月のダイヤ改正で1往復増発されましたが、同時に12両編成になりました。
この時ですかねぇ? 1往復を青森運転所 (盛アオ~現在のJR東日本盛岡車両センター青森派出所) が所管するようになったのは。
如何にも 「青森の車両です」 を印象づける485系。クハ481が貫通扉付きの200番代と東北特有の連結器カバーが付いているから余計にそう感じるのかもしれません。
同じ485系でも、こちらは仙台運転所の車。非貫通の300番代が先頭に立っています。
「これは1000番代では?」 と思われるかもしれませんが、秋田運転区 (秋アキ~現在のJR東日本秋田車両センター) の1000番代は、グリーン車が編成中央の6号車に連結されていました。53.10改正で青森や仙台も秋田の編成に統一されましたけど、画像はクハの次位にグリーン車が連結されているでしょ。それに連結器カバーも装着されていませんし、当時の青森運転所のクハ481は基本的に200番代で統一されていたため (300番代はホントに一時期だけ在籍してすぐにどっかに行ってしまった) 、これだけでもこの車両は仙台車であることが裏付けられます。
前述のように、昭和50年になってようやく奥羽本線が全線電化完成され、 「つばさ」 も485系に置き換わるのですが、 「つばさ」 用の485系は落成が間に合わなかったため、暫定的に青森や南福岡電車区 (門ミフ~現在のJR九州南福岡車両区) の車両を使って場を凌ぎました。この 「つばさ」 用こそ、485系の決定版とも言うべき1000番代だったわけですが、北海道用の1500番代が現地で辛酸を舐めていたため、その失敗を繰り返さないためにも徹底した耐寒耐雪構造を施すことになります。
485系1000番代は昭和51年に落成して、早速秋田運転区に配置。 「つばさ」 に充当されたのは勿論のこと、これを機に 「やまばと」 も秋田に移管して 「つばさ」 と共通運用が組まれるようになります。
こちらが秋田の1000番代を使用した 「やまばと」 です。
昭和53年10月、3往復運転のまま変わっていない 「やまばと」 が何故かエル特急に “昇格” しました。これは上野-盛岡間における 「はつかり」 と 「やまびこ」 、上野-直江津間における 「あさま」 と 「白山」 の関係と同じで、上野-山形間では運転区間が重複しているため、異なる列車名だけど同じものとして扱われたんですね。それで時あたかもエル特急が持て囃されていたので、双方をエル特急にすることで、人気あるいは乗車率をさらに上げようとする国鉄の意図でした。同改正で採用されたイラスト入りヘッドマークの相乗効果もあって、結果的には功を奏した形になりますが、どちらかといえば、 「やまばと」 は地味な存在だったのかなって気がします。新幹線も無い時代、そこそこの需要はあったと思うんですけど、東北本線電車特急はやはり 「はつかり」 や 「ひばり」 がツートップであり、その他はこの2列車を盛り立てる脇役的な扱いであったのは否めません。
昭和57年6月、東北新幹線が大宮始発の暫定ながらついに開業しまして、上越新幹線が開業した同年11月の改正では東北新幹線も増発されました。その一方で多くの在来線列車が廃止されていきましたが、新幹線の影響をあまり受けない奥羽本線関係の列車は取り敢えず残留しました。しかし昭和60年3月に東北・上越新幹線が上野まで開業すると、さすがにそんなことは言ってられなくて、 「つばさ」 は1往復だけ残して、新幹線に接続する福島-山形-秋田間の列車になり、 「やまばと」 は 「つばさ」 に統合される形で廃止されてしまいました。
これ以降、 「やまばと」 の列車名は永遠に封じられることになります。
平成9年に開業した秋田新幹線には 「こまち」 の愛称が与えられて浸透していますが、今更秋田新幹線に 「つばさ」 、山形新幹線に 「やまばと」 を与えるのは厳しいか・・・。
【画像提供】
タ様、い様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.262、368、494 (いずれも交友社 刊)
よみがえる485系 (学研社 刊)
キャンブックス 「485系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳第2号 「東北」 (新潮社 刊)
JNR EXPRESS (ネコ・パブリッシング社 刊)
ウィキペディア (つばさ (列車) 、奥羽本線)