昨今、小田急7000形 「LSE」 が引退したことが話題になりました。NHKのニュースでも取り上げられたのでちょっと驚いたのですが、引退したといえば、こちらも忘れてはなりません。東武鉄道の1800系電車。長年、急行 「りょうもう」 用として、まさに華々しく活躍し、 「DRC」 こと、日光線用の1720系には劣ってしまいますけど、伊勢崎線の杉戸 (現、東武動物公園) 以北ではフラッグシップだったし、そして “華” だったのはアラフォー、アラフィフの世代であれば誰もが認めるところでしょう。平成生まれのお子ちゃま鉄道マニアには 「あれって団体用の車両じゃないの?」 というイメージしかないと思いますが、紛れもなく優等列車用の車両です。
古くから伊勢崎線には優等列車が設定されていましたが、その最上位は急行。当初は 「名無しの権兵衛」 で、 「りょうもう」 という愛称が付いたのは1953年のこと。しかも、日光線で活躍した車両のセコハンを押しつけられていた格好でしたが、スピードはそこそこ速かったので、利用客には好評でした。しかし、如何せん、使用車両が5310系 (元、デハ10) や5700系といった中古ばかりなので、伊勢崎線急行のイメージアップにと初めての新造車両を宛がうことになりました。それが1800系です。時に1969年のこと。私と同い年だ。
新型車両投入に合わせて、 「 「りょうもう」 を特急にしたら・・」 という案も出たようですが、特急用としてはホスピタリティが些か劣ることもあって、そのまま急行で通すことになったそうです。その他にも計画段階で様々な案が出されましたが、抜粋すると・・・
① 観光向けではなく、ビジネス向けの車両とする。この観点から、付帯設備は便所のみとし、
その分、客室を大きく取ることとする。② 車両性能は、浅草-太田間を1時間20分で走れるようにする。③ 編成を4両とし、分割・併合を考慮しない設計にする。このため、先頭車には貫通扉を設けない。④ 車両検修の合理化を図るため、客室内の無塗装化を徹底する。使用部品についても、通勤形の8000系と極力同一のものを使用する。⑤ 鉄道沿線の公害防止のため、便所の汚物を車外に放出しないetc・・・
1800系を連想する際、まず頭に思い浮かぶのは外板塗色ですが、あの派手な塗装も、日光線系統の列車と間違わないようにとの配慮が含まれています。
車体は全金属製の鋼製車体で、床材にステンレス鋼のプレートを使用しています。
客室内の構造は1720系と同一で、車両修繕の合理化のため、天井や内張り、間仕切り、引き戸表板等にアルミ基盤のデコラ張りにしています。
側面窓は1,520mm×750mmの大型固定窓を採用し、これは東武で初めての採用となります。
座席は回転式クロスシートを採用していますが、リクライニングはしません。
床下艤装や走り装置などは8000系と同一で、これも検修の合理化を目指したものです。
台車はミンデン式のTRS-62 (TRS-62MD) 型を履き、主電動機は直流直巻補償線付き自己通風型 (TM-63型) を採用、冷房装置は1720系と同じTAC-TA11型が載っています。
電動発電機は自動電圧調整器付き回転界磁形交流発電機 (CLG-326型) を、空気圧縮機は電動式 (D-3-FR型) をそれぞれ搭載しています。電動発電機はTc車 (クハ1810、クハ1840) に、空気圧縮機はM1車 (モハ1820) にそれぞれ取り付けられています。
パンタグラフは下枠交差型のPT-48 (PT-48A) 型で、これは私鉄では初の採用になりますが、冷房装置を取り付ける関係から、下枠交差型となりました。
1969年9月より、浅草-太田間の急行 「りょうもう」 としてデビューを果たし、明るい車体色と従来車両を上回るホスピタリティでたちまち人気列車となりました。
当初は4両×6本=24両が製造されて、 「りょうもう」 に充てられましたが、好評が好評を呼び、1973年にはさらに8両 (4両×2本) が追加増備されて、毎時運行が可能になりましたが、それでも乗客を捌ききれずに6両編成化することになりまして、1979年に2両の中間車を増備して6両化を実施しました。増備された中間車のうち、サハ1850形には車両基地内での構内運転に備えて、簡易運転台が設けられています。また、登場当初はデッキにも予備シートが設けられていましたが、後に撤去され、1975年にそのスペースを利用して、清涼飲料水の自動販売機が設置されました。この自販機設置は私鉄のみならず、日本の鉄道車両では初めてのことになります。また、1981年には前面窓にバイザーが取り付けられ、太陽光から運転士を守っています。
1987年に6両編成1本が増備されましたが、在来車と比較して、少しばかりですがマイナーチェンジが施されています。外見上の大きな特徴として、前照灯が丸目から角目になったことと、側面に行く先方向幕が取り付けられていることが挙げられます。
1990年代になると、さしもの1800系も老朽化の兆しが見られ、1991年に後継の 「りょうもう」 用となる200系が新造され (足回りは100系に置き換わった1720系を再利用) 、以降、順次200系に置き換わることになります。このまま廃車になるかと思われましたが、一部が通勤用に改造され、一部は日光線系統の急行用300系と350系に改造されたりしました。6両固定が300系で、4両固定が350系となります。300系は500系 「リバティ」 の登場で引退しましたが、350系はまだ頑張っています。
一方、通勤用に改造されたグループは、館林周辺で鞭打って走らせていた5000系を置き換えるための措置で、当初は30000系投入で余剰となった8000系を宛がう予定だったんですが、それと並行して長期留置していた1800系を活用することになり、当時の杉戸工場で改造工事が施されました。
外観は種車そのままですが、ヘッドマークが付けられていた部分にLED式の方向幕が据えられ、塗色も東武通勤車色に塗り替えられてしまいました。ただ、扉の増設や座席のロングシート化は行われず、急行時代そのままの出で立ちで、些かリッチな通勤が体感出来ました。
この1800系通勤車は、伊勢崎線ではあまり使用されず、佐野線や小泉線での使用がメインになっていましたが、さすがに元急行用車両。デッキ付きで片側2ヶ所のみ (先頭車だけ1ヶ所) の扉ではいくら館林とて乗降に手間取り、遅延が目立ち始めました。また、追い打ちをかけるように2006年3月に佐野線でワンマン運転が始まったことから、追われるようにして小泉線の館林-西小泉間のいわゆる 「非ワンマン区間」 での運用に就くようになりましたが、それも長く続かず、同年9月に小泉線の館林-西小泉間もワンマン運転が行われることになり、これでトドメを刺されました。地下鉄乗り入れ用の2000系も改造後 (2080系) の活躍は長くなかったですが (18m級が災いした) 、1800系改造車もその活躍は長くなかったです。やはり、出自が優等列車用であったことが逆に災いしたようです。
最後まで 「1800系のまま」 で残ったのが最終増備車の1819Fでした。こちらはローズレッドの塗色のまま、200系に完全に置き換わる1998年3月末まで 「りょうもう」 運用に就きました。勿論、新車の方が良いわけですが、わざわざ1800系の運用を調べて乗車する人もいたようで、そこは別の意味で 「流石だな」 と感じます。残念ながら1800系には乗ったことはないですけど (特急としての 「りょうもう」 は乗車経験あり) 、もしそのニュースを知ったなら、きっと同じことをしたんでしょうね。
なお、急行 「りょうもう」 は、1800系が運用を離脱したその翌年に特急に格上げされて、現在に至りますが、もう少し1800系の離脱が遅かったら、満を持して1800系が特急運用に就いたんでしょうけど、叶わぬ夢になってしまいました。ただ、350系に改造されたグループは 「しもつけ」 や 「きりふり」 等が同じ時に特急になっているので、特急運用が実現しています。
画像は1997年撮影ということで、1800系使用の 「りょうもう」 としては最晩年になろうかと思いますが、個人的には 「りょうもう」 はやっぱり急行ですし、 「りょうもう」 は1800系なんですよね。それだけ1800系と 「りょうもう」 のイメージは植え付けられています。今や、 「けごん」 と 「りょうもう」 が併結運転する時代、東武も随分と格を下げることをするなと思いますが、1720系や1800系全盛の頃は、国鉄同様、特急と急行は専用車両を用いて、それだけの別料金を取るなど、格の違いを見せつけていたんですよ・・・。
【画像提供】
岩堀春男先生
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション・27 「東武鉄道1970~1980」 (電気車研究会社 刊)
カラーブックス 日本の私鉄・10 「東武」 (保育社 刊)
復刻版 私鉄の車両・24 「東武鉄道」 (ネコ・パブリッシング社 刊)
ウィキペディア (東武1800系電車、同300系電車、同2000系電車、りょうもうなど)