「よん・さん・とお」 改正50周年記念の第三弾は、この改正で運転を開始した寝台特急 「明星」 にスポットを当てます。以前にもお話ししたように、最盛期の運転本数で言えば、 「ゆうづる」 と双璧をなしたといっても過言では無く、言われていたかどうかは定かではありませんが、 「東の 「ゆうづる」 、西の 「明星」 」 と、それだけ需要があったことを物語っています。同じ本数の多い列車として、 「あかつき」 がありますけど、 「あかつき」 は電車使用例がありません。そういう意味で言うと、 「ゆうづる」 も 「明星」 も電車と客車を使い分ける列車としてよく似た性格の列車でもあります。
我々よりも一回りも二回りも違うおじさん世代だと、 「明星」 の名は東海道新幹線開業前の東京-大阪間を走った夜行急行のイメージが強いと思います。 「明星」 を始めとして、 「あかつき」 「彗星」 「月光」 と、後に関西対九州の寝台特急として活躍する列車は、東海道本線の夜行列車として定着していましたしね。
寝台特急としての 「明星」 は、その東海道夜行急行が格上げしたものではなく、昭和36年10月から大阪-熊本間で運転を開始した夜行急行 「ひのくに」 の格上げによって登場しました。運転区間も急行時代と変わらず、新大阪-熊本間 ( 「ひのくに」 は、昭和39年10月から新大阪-熊本間に変更されている) 。
東海道新幹線開業に伴って、東海道本線の夜行急行は基本的に全滅していますが、 「明星」 は辛うじて生き延び、一等寝台も連結する豪華版でした。昭和43年10月の改正で 「明星」 の名は前述の 「ひのくに」 格上げで寝台特急の愛称に抜擢され、それまでの 「明星」 は 「銀河」 に改称しました。
20系客車全盛の中、 「明星」 は客車ではなく581/583系電車 (以下、583系と一括りします) を使用し、581系としてその前年に登場した寝台・座席兼用電車は、43.10改正で大きく花を開かせます。 「明星」 の他、東北本線 (常磐線) の 「はつかり」 「はくつる」 「ゆうづる」 、山陽本線の 「つばめ」 「はと」 「金星」 に充当され、583系が一気に大増備されることになります。なお、この時から電動車ユニットは、50Hz/60Hz兼用の583系として製造され、581系の電動車ユニットは2ロット24両のみで製造が終わってしまいました。但し、付随車はそのまま581系を名乗ることになりますが、昭和45年からはMGを増大させたクハネ583が製造されるようになります。
登場時は1往復のみの運転でしたが、徐々に本数を増やしていき、昭和44年10月の改正で1往復増えて2往復に (但し、増発された1往復は水曜日と木曜日が0.5往復ずつという変則ダイヤが組まれた) 、昭和47年3月には一気に増発されて6往復に、そして昭和49年4月には自身最多の7往復にまで増えました。ただ、ここまでは0.5往復が含まれており、おそらく九州の 「有明」 に充当されるためだと思われます。
山陽新幹線が博多まで全通した昭和50年3月のダイヤ改正では、山陽本線の昼行特急と急行がほぼほぼ全滅しましたが、夜行列車は廃止されることなく運転され続けます。この時から 「明星」 は客車が加入し、7往復のうち3往復が電車、4往復が14系客車を使用する列車になりました。また、1往復は筑豊本線経由となりました。九州北部の炭田を走る筑豊本線は、意外にも優等列車が多く設定されていて、長崎や熊本へは博多をショートカットして筑豊本線を経由する方が時間的にも短いと判断されたのでしょう。昭和40年の 「みどり」 に始まり、 「いそかぜ」 、 「かもめ」 と佐世保発着の列車が筑豊本線経由として設定されました。今も直方-桂川間で 「かいおう」 が走っていますけど、レベルは全然違います。そして大抵の特急列車は、例外もありますが直方と飯塚にしか停まらなかったりします。
「明星」 の筑豊本線経由は、53.10改正から 「あかつき」 にバトンタッチして、昭和60年まで運転されました。
本数で圧倒的な存在感を見せていた 「明星」 ですが、翳りが見え始めたのが53.10改正になってから。それまで劣勢だった航空機網が発達したのと、航空運賃が寝台特急の運賃とさほど変わらなくなったためで、3往復廃止になって4往復運転となりました。さらに55.10改正では1往復減って3往復に、そしてついに57.11改正では1往復運転となってしまい、この改正で583系は使用されなくなりました。59.2の改正では、辛うじて命脈は保たれたものの、新大阪-鳥栖間で 「あかつき」 と併結運転をすることになりました。これも複雑な経緯で、583系の 「なは」 が廃止されて、 「あかつき」 の佐世保行き1往復を西鹿児島 (現、鹿児島中央) まで延長して、これを 「明星」 と改称し、57.11以降、客車列車で孤軍奮闘していた 「明星」 を 「なは」 に改称しました。単純に 「なは」 は583系から24系25形に置き換わっただけのようにも見えるんですが、実際は 「明星」 からの改称によるものでした。でも、わざわざ 「あかつき」 を 「明星」 に変える必要は無いような気がするんですけど、当時の関西ブルトレは、長崎系統が 「あかつき」 、熊本・鹿児島系統が 「明星」 、そして日豊本線系統が 「彗星」 と整理されていて、59.2改正における列車名の変更はそういった内部ルールに則ったものだと思われます。
「あかつき」 と 「明星」 の併結運転は、50.3~53.10改正まで存在し、5年半ぶりの復活となったのですが、その時には九州内のみながら、取り付けられることが無かったヘッドマークが用意されて、斜陽化が進むブルートレインにあって、一瞬のカンフル剤となりました。また、新大阪-下関間でも60.3改正からヘッドマークが復活しています。しかし、ブルートレイン人気がV字回復になることはなく、 「明星」 は昭和61年11月の改正で廃止になってしまいます。
私は 「明星」 はあまり好きではなく、 「明星」 だったら 「彗星」 、 「ゆうづる」 だったら 「はくつる」 と支持が違いました。そうは言っても、583系の長い編成を見る機会が無かった平成生まれの鉄道ファンは、12~13両の “本当の姿” を見て、どのように感じるんですかねぇ~?
【画像提供】
い先生
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.715 (電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.275、407 (いずれも交友社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳第4号 「東京」 、第9号 「大阪」 (いずれも新潮社 刊)
時刻表各号
ウィキペディア (筑豊本線、かいおう)