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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (465)

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D51 200の “出張” が決まり、新型客車も製造されて益々話題が沸騰している山口線。画像はそれに先駆けて、乗務員の習熟のために駆り出されたC58 1号機の姿・・・・なわけはなくて、山口線におけるSL復活運転の黎明期にC57 1とともに頑張っていた頃のC58 1になります。短期間でしたが、山口線にC58が走っていたのをどれ位の人が覚えているでしょうか。

国鉄の営業線路上から蒸気機関車が姿を消したのは昭和51年3月2日のことでした。旅客列車はその前年の昭和50年12月14日に、貨物列車は同月24日にそれぞれ営業運転を終えており、残るは追分駅構内での入れ替え作業のみとなりました。それも上述の3月2日に終了して、明治5年から連綿と受け継がれてきた国鉄の蒸気機関車は全て姿を消したことになります。

しかし、蒸気機関車の人気は衰えることはなく、観光客の誘致を目的とした、または産業遺産としての蒸気機関車を残すべく、動態保存として蒸気機関車を動かそうという機運が昭和40年代後半あたりから高まります。その口火を切ったのが静岡県の大井川鉄道 (→大井川鐵道) で、手始めに西濃鉄道の2100形2105号機を譲り受けて昭和45年に動態復元を行って、蒸機運転のノウハウを培った後、昭和51年7月から元国鉄C11 227号機を使用して本線運転を行いました。ということは、2105は駅構内のみの運転だったのでしょうか?

国鉄から蒸機が消えて半年経っただけでもう復活? と嘆いた方も少なくなかったと聞きますが、ともあれ、大井川鉄道の蒸機運転は大成功で、その歴史は今もなお、脈々と受け継がれているのは周知の事実かと思います。

一方、国鉄はこの状況をただ指を咥えて見てるわけではなく、 「 “鉄くず” が “金のなる木” になるのだから、ほっとかない手は無い」 として、蒸機の本線運転を真剣に考えるようになります。既に国鉄では、産業文化遺産として蒸気機関車を半永久的に残しておく意味合いから、昭和47年に梅小路機関区の転車台と扇形庫を利用した蒸気機関車専門の博物館、 「梅小路蒸気機関車館」 をオープンさせていましたが、当時は全機、有火状態での保存で、車籍も残されていたことからその気になれば本線運転も可能でした。しかし、老朽化が進んでいたことと有火の状態、車籍有りの状態で保存していくには莫大な費用が嵩むことなどから、次々に火を落として車籍を消す、つまり廃車扱いとなって、静態保存が過半数を占めました。
その傍らで、本線運転の実現に向けて、対象機、運転線区など具体的な絞り込みを行いまして、最終的に沿線に数多くの観光地を持ち、転車台があるなどの諸条件が重なった山口線で運転を行うことと、対象機にはC57 1号機が選ばれまして、昭和54年8月1日から 「SLやまぐち号」 として小郡 (現、新山口) -津和野間の運転が始まりました。

「SLやまぐち号」 の人気はうなぎ登りで、当時はブルートレイン、エル特急と並び称される国鉄の 「稼ぎ頭」 でした。この人気に肖って、蒸機運転の一つのハイライトである 「重連運転」 を実現させようという機運が高まり、また、2台体制にすることによってC57の負担を幾分でも軽くすべく、国鉄ではもう1両のカマを用意することになります。そうして白羽の矢が立ったのがC58 1号機です。今でこそ、秩父鉄道の363号機や釜石線の239号機など、C58の動態保存例はいくつかありますが、その嚆矢になったのが山口線の1号機でした。1号機は昭和13年に産声をあげて、新製配置は新鶴見機関区でした。新製当初は関東近辺で見られましたが (新鶴見から千葉機関区へ転属) 、戦後は北海道へ渡り、北見機関区に在籍して釧網本線や石北本線といった道東を中心に活躍しましたが、昭和47年に保存を前提として梅小路機関区に転属します。

C58 1の整備はC57 1同様に鷹取工場で行われました。同機の全検切れ (車で言うところの車検切れ) は昭和53年12月のことですが、復活運転の対象機に選定が決まった後、昭和54年に鷹取工場に入場して全般検査を受けて車籍を復活させました。
整備内容もC57 1とほぼ同じで、煤煙対策で煙突には集煙装置を取り付け、形式入りの 「戦前式プレート」 も用意されましたが、C57 1が赤地だったのに対し、C58 1は緑地でした。
そして昭和55年から 「やまぐち号」 の牽引機となったのですが、あくまでもC57 1の予備機扱いで、時に単機で、時に重連で 「やまぐち号」 の仕業をこなしました。変わったところでは、同年6月に横浜港開港120周年記念事業の一環として、長駆、横浜まで回送され、横浜臨港線を走ったこともありました。当時から数えて約30年ぶりの首都圏への凱旋でした。

このまま2台体制でいくものと思われていましたが、ボイラーの老朽化による故障が頻発したことから、全検を通してもそんなに長くは走れないだろうという判断で、加えて国鉄の財政難も影響して復帰後の全検は実施されず、昭和59年1月を最後に 「やまぐち号」 の牽引から撤退して梅小路に戻りました。しばらくは全検が切れても車籍は残していましたが、民営化直前の昭和62年3月に車籍も失って、それ以降はただの 「飾り物」 として梅小路で眠ることになります。

C58 1撤退後は、C56 160がその代役を務めていましたが、そのC56も加齢には敵わず引退することが決まり、D51 200がその後を継ぐことになっています。ただ、客車が新しく作られたことを考えると、もう少し 「やまぐち号」 の運転は継続されるものと思われます。蒸気機関車まで新製しろとは言いませんが、産業文化遺産をあまり酷使すると祟りがおきませんか・・・?

【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.223、382、404 (いずれも交友社 刊)
ウィキペディア (JR山口線、SLやまぐち号、C57 1号機、C58形蒸気機関車、大井川鐵道など)

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