昭和40年代の阪急京都線、いや、京阪神急行電鉄の看板車両であった2800系電車です。
昨年、 「私鉄花形車両の成れの果て」 ということで、特急用から普通用に墜ちた2800系の姿をおつたえしたことがありましたが、今回お届けする画像は、2800系のオリジナル姿、まさに “正調” の姿ということになります。撮影が1975年ということなので、特急用としては最晩年になろうかと思います。
ところで、ガキの頃はそう思わなかったのですが、次第に阪急に興味を持つようになって色々と調べていくうちに、 「何故、京都線だけが・・・」 と思えるフシがいくつか散見されることに気がつきます。
例えば、何故、2800系や6300系のように、京都本線の特急にだけ2扉転換クロスシート車があるのか? とか、何故、京都本線だけ中津駅のホームが無いのか? とか、京都線の特急だけ何故運行標識板を左右に掲げるのか? 等々。そういう目で見ると、どうしても京都本線が阪急のフラッグシップたる存在になってしまうのですが、そうしちゃうと、神戸線と宝塚線のいわゆる 「神宝線」 系統からは 「庇を貸して母屋を取られた」 とぼやかれてしまいます。そう、京都線は正調阪急の一員ではなく、他所からやって来た存在になります。
コアな阪急ファンならご存じかと思いますが、今の阪急に通じる正調な血筋は宝塚本線と箕面線で、1910年の箕面有馬電気軌道によってその歴史は始まりました。その後、箕有電軌は神戸を周回する軌道線の建設免許の申請を行うべく立ち上げた灘循環電気軌道を合併し、1918年に阪神急行電鉄に社名を変更して1920年に十三-上筒井間を開通させます。これが神戸本線になります。
京都線系統の血筋は京阪電鉄になるのですが、本質的な血統は1915年に開業した北大阪電気鉄となります。これは現在の阪急千里線で、後年誕生した北大阪急行電鉄とは無関係の会社です。
大阪を代表する淀川を挟んで左岸の方は、既に京阪電気鉄道が路線を開業させていましたが、右岸の方は官設鉄道 (→鉄道省→国鉄→JR) だけで、これに目を付けたのが北大阪電鉄でした。ここで注目しなければならないのが、当時、関西地区では神戸や大阪などを中心に鉄道線開業ラッシュに湧いていましたが、いずれも軌道法 (当時は 「軌道免許」 ) による申請でした。その中で北大阪電鉄は 「軽便鉄道敷設免許申請」 によって申請をしたこと。軌道線に比べて、軽便鉄道の方が当時の水準からすれば高規格になります。これは、軽便鉄道敷設による補助を目的としただけでなく、急激な大阪の人口増加に伴って、それに伴う墓地不足が懸念されたことも大きな理由とされています。大阪ではそれを見越して、当時、山また山だった千里山に大規模な墓地 (霊園) を建設を構想してたこともあって、そこへの輸送を考慮して、軽便鉄道にしたと言い伝えられています。結果的には千里山の墓地建設は実現しませんでしたが、千里山に大規模な宅地開発を行い、線路を挟んだ反対側には関西法律学校 (後の関西大学) を誘致し、郊外開発の礎となったのです。
さて、淀川の左岸に一足早く開業させた京阪電鉄ですが、既に淀川の右岸には官設鉄道が敷かれており、21世紀の現在に通じる京阪間の熾烈な乗客争奪合戦の始まりになります。しかし、京阪はとにかくカーブが多く、スピード面で劣勢でした。そこで、京阪は淀川の右岸に直線を基調とした新たな高規格路線を建設することになり、また、大阪都心への乗り入れも実現させたいことから、十三-千里山間の開業を目前にしていた北大阪電鉄にアプローチをかけて新会社を発足させることになります。そのような経緯を経て、1922年に新京阪電鉄を発足させ、翌1923年に北大阪電鉄の鉄道部門 (運輸部門) を引き入れます。これが京都本線の “子種” になります。
新京阪の目的は、あくまでも官設鉄道に打ち勝つこと。故に、常に最新の車両を送り込んできましたが、中でも後世に語り継がれる伝説の名車と謳われるのが 「P-6」 こと、デイ100形。当時の日本において、事実上の “スピード日本一” と崇められた超特急 「燕」 をブチ抜いたエピソードはあまりにも有名。電車の持つ潜在的な才能をデイ100は先鞭をつけたのです。
新京阪は、戦時中の国策の中で阪神急行との合併を模索する動きが見られ、戦時輸送であたふたしていた省線の貨物輸送によって旅客輸送がまともに行えない事情があることから、1943年に阪神急行との合併を決断し、京阪神急行電鉄が設立されます。この時期、南海と近鉄、関東でも小田急、東急、京浜急行、京王 (京王電軌、帝都電鉄含む) の大合併が歴史上の著名な出来事として記録されています。
戦後間もない1947年に公布された 「過度経済力集中排除法」 などの影響によって、戦時中に一つに纏まっていた各鉄道会社が再び分離の動きを見せるようになり、先陣を切って京浜急行が東急から分かれましたが、阪急も京阪からの分離を検討することになり、1949年に京阪と京阪神急行は分離され、新京阪は京阪神急行側に残って阪急京都線となりました。
こうして、ようやく 「阪急京都線」 となるのですが、神宝線とは出自が違うので、ストラクチャーの建築基準や車両の基準も異なり、同一の仕様でも京都線と神宝線とでは異なる車両を製作しなければなりません。1000系 (初代、二代目) に対する1300系、2000系に対する2300系、9000系に対する9300系等々、基本的には神宝線に基幹型式を投入し、京都線系統には基幹型式プラス300を与えています。
それから、神宝線は梅田が起点で、列車も梅田発が下り列車となるのですが、京都本線は河原町が起点で、梅田行きが下り列車となります。さらに戸籍上の京都本線は、河原町-十三間が正式な京都本線の区間で、十三-梅田間は宝塚線の一部となります。
神宝線はどちらかというと、開業当時から富裕層の乗る路線というイメージを定着させたことから、宛がう車両もどことなくモダンなイメージを醸しているのに対し、京都線は前述のようにその歴史の過程上、あくまでも国鉄に打ち勝つことが第一目的だったこともあって、国鉄を凌ぐホスピタリティの車両を用意する必要があったものと思われます。デイ100や2800系、そして6300系はその最たるものです。
2800系の歴史は機会があったら、あらためてお伝えすることにして、これからもきっと阪急京都線は孤高の存在でありつづけるんでしょうかねぇ~?
【画像提供】
岩堀春男先生
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.916、930 (いずれも電気車研究会社 刊)