EF81 300番代が牽引する客車列車が上野駅に到着しました。12系客車だと、急行 「十和田」 か臨時列車かといったところでしょう。
「えっ!? 何で関門専用の300番代が上野駅にいるのっ!?」 と不思議がる平成生まれのお子ちゃま鉄道マニアは少なくないと思います。車生の過半数を関門間で過ごしているから、そういうふうに捉えられても無理はありません。しかし、わずか6~7年でしたが、300番代が関東に “出張” 、あるいは “単身赴任” していた時期がありました。
時は昭和53年、この年の10月にダイヤ改正が行われましたが、マニア目線で見れば、電車特急にイラスト入りヘッドマークが採用されたり、特急 「くろしお」 が電車化されたり、その 「くろしお」 を含む電車特急の一部が増発されてエル特急の仲間入りを果たしたり、列車の号数を下り奇数、上り偶数とする 「新幹線方式」 が採用されたりと、話題に事欠かない改正でした。しかし、実際の改正点は 「減量ダイヤ」 と言われ、列車の本数削減やスピードダウンが余儀なくされ、暗い話題が先行したダイヤ改正になりました。その中で、昭和40年代に起こったオイルショックの影響をまともに受けた貨物輸送は、年々需要が減り、この改正ではその輸送力の乖離を是正するため、大規模な列車整理を実施することになりました。その一環として、下関-門司間の列車整理も行われ、機関車に余剰が発生したため、300番代のうち、301号機と302号機を茨城県の内郷機関区に転属させました。これは多分に、老朽化が懸念されていたEF80を置き換える目的もあったと思われます。他にも富山第二機関区から2両のEF81が内郷機関区に転属してきて、常磐線や東北本線の貨物列車、客車列車の牽引に従事します。この中には、銀色の腹巻きをして人気機になった81号機や後に 「スーパーエクスプレスレインボー」 の牽引機になる95号機も含まれています。EF80が牛耳っていて、なかなか脇役から抜け出せないでいた関東のEF81にもようやく一筋の光明が見えてきたという時期と重なります。
300番代転入にあたって、外板塗色をそれまでのステンレス無塗装から、他のEF81と同じ、ローズピンク (赤13号) に塗りました。これは視認性に関係すると言われていますが、ステンレス無塗装の方が目立って良いんじゃないかって気がするのは私だけでしょうか?
こうして、限られた地域でしか見られない、 “ご当地機関車” が首都圏でも見られるということで、関東の鉄ヲタは狂喜しました。私も、微かな記憶ではありますが、新小岩で見たような気がします。そう、この当時の内郷のEF80とEF81は、常磐線の平から上野、田端操車場までと、水戸線、東北本線の黒磯までの運用がありました (ザックリですが) 。武蔵野線の運用もあったかな? また、新金線にも乗り入れて、新小岩まで顔を出していました。今だったら、そのまま車上切り替えで黒磯から先もEF81が乗り入れるんでしょうけど、黒磯から先はED71やED75の縄張りということで、せっかくの交直両用の機能を持て余していました。常磐線ではその機能を遺憾なく発揮するのですが、この当時の国鉄は、そのエリアといいますか、その縄張りといいますか、セクショナリズムが蔓延してましたので、自らの縄張りに他人が土足で踏み入れることを良しとしなかった、そんな企業体質でした。
先程も申しましたように、この当時の内郷機関区は、EF80が牛耳っていましたので、特急 「ゆうづる」 や急行 「十和田」 といった優等列車の牽引は、EF80が一手に引き受けていまして、EF81は専ら貨物列車の牽引がメインでした。客車列車も団体臨時列車ばかりで、首都圏で見られた数少ない客車鈍行列車の牽引もEF80が引き受けていました。
そんなEF81ですが、やはり300番代はスター機関車だったんでしょうね。短区間ながら、ブルートレインも牽引していたし、わずか4両しかない稀少性も人気をあげる一つのファクターでした。
昭和50年代後半、EF81に大きな転機が訪れます。長年、常磐線の “主” として君臨していたEF80を本格淘汰することになりました。また、北陸で活躍していたEF70も淘汰の対象となり、EF81は大規模な転配が実施されます。まず、昭和57年に田端機関区のEF80を置き換えるため、内郷から3両のEF81が田端に転属になります。この中には300番代2両も含まれており、ついに300番代は東京地区の機関区に配属となります。ただ、国鉄時代の田端機関区は、今の田端運転所とは違い、基本的には首都圏の貨物列車の牽引を日課としていて、本格的にブルートレイン牽引の重責を担うのは、民営化になってからのことです。なお、田端機関区所属機は、よほどのことが無い限り、東海道線には入らないので、例えば品川客車区とかで14系や24系25形などと顔を合わせ 「よう、関東の水には慣れたかい?」 とか 「向こう (関門) の仲間は元気でやっているかい?」 という会話はしなかった (出来なかった) かと思われます。ただ、 「ゆうづる」 の運用に就いていた14系や24系24形とかは、かつて関西ブルトレで活躍していた車両もあったので、転入時に 「ご無沙汰」 という会話はあったかもしれませんけどね。
次いで昭和59年2月のダイヤ改正で、内郷所属の7両が田端に移り、内郷機関区は車両無配置になります。なお、内郷機関区は昭和60年に廃止されていわき貨物信号場となりますが、信号場も平成10年頃に廃止されます。
これでようやくEF81の天下が訪れたと思った矢先に、300番代2両の単身赴任解除が通達されます。
昭和60年、今度は関門間のEF30を淘汰することが決まりますが、いくら貨物輸送が減ったとはいえ、機関車を減らすことは出来ないので、田端の301、302号機を門司機関区に戻すことになりました。302号機が先陣を切って門司に戻り、追ってその翌年に301号機が戻っていきました。そしてさらに0番代が数両、門司や大分に転属になりますが、これが後に改造を受けて400番代となります。こうして関門間のワンポイントリリーフであったEF30は、民営化を待たずに全機が引退しました。国鉄当時は地味な機関車でしかなかったEF81ですが、老トル機関車を次々と引退に追い込んだしたたかな機関車とも言えます。301、302号機は門司復帰後もローズピンクの外板塗色を剥がすことなく、このままの状態で九州をメインに活躍しています。廃車に関する情報がありませんが、まだ4両とも健在なんでしょうか? また、301号機は田端所属時に 「ゆうづる」 の牽引も仕業に加わったので、東日本でもブルトレを牽引しています。
前述のように、EF81は国鉄時代は地味で、ブレイクするのは民営化されてからになります。でも、その下地は国鉄時代からしっかりと拵えていたんですね・・・。
【画像提供】
タ様
【参考文献・引用】
季刊 j train Vol.30 (イカロス出版社 刊)
鉄道ファン No.223、289 (いずれも交友社 刊)
ウィキペディア (いわき貨物駅、EF81形電気機関車)