2年位前に、 「子供の頃、恐怖に戦いた電車」 ということで、東京都交通局の5000形電車を取り上げたことがありました。その時は新塗色+さよなら運転時の画像でしたけど、今回は “恐怖” の元となった、原色の5000形を取り上げ、あらためて、 「何で恐かったの?」 というのを検証したいと思います。
その時の記事でも申したのですが、この電車との出会いは私が幼稚園の時でした。虫歯になって、歯医者に行くことになり、誰かの紹介ということで高輪台の歯医者に行くことになったのですが、後からオカンに聞いた話によると、完治後、出禁になったというから、相当 (病院で) 暴れまくったのでしょう。電車に乗れるという楽しみよりも、まずは恐怖感でしかなかった都営浅草線 (当時は都営1号線) です。
覚えている方はどれだけいるか判りませんが、都営浅草線の日本橋駅、当時は江戸橋駅と言っていました (江戸橋駅を日本橋駅に改称したのは1989年のこと) 。まず、オカンから 「江戸橋で乗り換えるよ」 と言われたその段階で足が竦みました。
今でも都営浅草線は行き交う車両のバラエティは豊富でしたけど、その当時から様々な車両が都営線を行き交っていたのは覚えています。この時初めて、京浜急行の存在を知るのですが、あのカラーリングから、事もあろうに 「何で丸ノ内線がここにいるんだろう・・・?」 って突拍子もない疑問を抱いていました。あの頃の京急車は1000形だけでしたけどね。
それから京成線。
私にとって京成線は、 「八千代台に行く電車」 として認識していました。当時、オカンの友人が八千代台にいたことから、そう呼んでいましたが、その頃は “赤電” 全盛期で、ステンレス車体の3500形が最新鋭の電車でした。その電車達が何故か都営1号線にやって来たということで、事態を飲み込めないでいる私は、とにかく 「?????」 の連続でした。今になって思えば、他愛のないこと且つ実に単純なことなんですけど、当時の私の思考能力からして、 「相互乗り入れ」 という言葉すら、自らの辞書に載っていない時期ですので、疑問に思うのも無理からぬ事かと。
それでも、都営車が来ると、もう 「地獄行きの電車だ」 とばかりに、楽しんでいる余裕はありませんでした。高輪台に着く頃は、きっと叫き散らして、母親を困らせたんだと思われます。世間的には高輪台というと、セレブの街として浸透していますけど、40年以上経った今でも私にとって高輪台は “地獄” 以外の何者でもありません。よほど、相当な幼児体験だったのでしょう。
そんな都営浅草線に久々の新車が登場するのだとか。
極々たまぁ~~に、浅草線は使いますけど、今も数回は 「都営1号線」 って言ってしまいますね・・・。
【画像提供】
フ様
【参考文献・引用】
ウィキペディア (都営地下鉄浅草線、東京都交通局5000形電車)