JR東日本の動態保存機として彼方此方走り回っているC61 20号機の現役バリバリの頃の画像です。
戦前から活躍していたC55、C57の後継機関車または増備機関車という名目で計画されますが、GHQの許可無しで新たな機関車を製造するのは不可能だったため、既存の機関車を改造して新形式にするという苦肉の策が採られました。この時期は同様の手法で、様々な機関車が造られましたが、一例を挙げると、C59をC60に、D51をD61に、D52をD62に・・と言った具合に、従台車を増やして軸重を軽くし、亜幹線 (乙線や丙線を含む) にも入線出来るようにする改造を行ったかと思えば、ボイラーを流用した新たな機関車も製造されました。これも改造名義で登場したことになります。その代表格がC62ですが、C62はD52のボイラーを流用したのは皆さんもよくご存じのことかと思います。そしてC61はD51のボイラーを流用して誕生した形式です。
全くの同一設計では無いと思いますけど、D51のボイラー+C62の足回りというのが、C61の基本スタイルになります。前述のように、C62はD52のボイラーを流用しているため、見てくれはC61よりもデカく見えます。
参考までに、C61とC62を見比べてみて下さい。種車の関係から、その大きさの違いが一目瞭然でしょ。
さて、20号機は、D51 1094のボイラーを流用して、昭和24年8月に産声を上げたカマで、新製配置は青森機関区でした。1年足らずで仙台機関区に転属して、東北本線や常磐線を中心に、 「はつかり」 や 「はくつる」 といった特急列車から普通列車まで幅広く使われました。なお、仙台時代に梅小路蒸気機関車館 (現、京都鉄道博物館) に保存されている2号機と同僚機になりました。
昭和41年に住み慣れた仙台をあとにして、再び古巣の青森機関区に戻りますが、東北本線や奥羽本線の電化が進み、無煙化の推進も手伝って東北にはいられなくなり、終の棲家として九州を選び、昭和46年に宮崎機関区に転属しました。
C61に限らず、この頃になると、SLによる特急列車の牽引は無く、急行列車の牽引にスポットライトが当てられるようになります。折りしもSLブーム、 「ニセコ」 や 「安芸」 、そして 「日南」 など、それまで脇役でしかなかった急行列車がスターダムにのし上がりました。C61 20は定期の急行運用は持たなかったようですが、 「日南51号」 の牽引に時折オファーがかかり、客車列車の牽引が無い時は、貨物列車も牽引するようになりました。
北と南を走り続けること24年、約287万キロを走り抜いて昭和48年8月、C61 20は引退することになりましたが、運良く解体されず、群馬県伊勢崎市の華蔵寺公園遊園地に保存展示されることになりました。何故、群馬なのかがいまいち解っていませんが、廃車後、一旦、鹿児島本線の出水機関区に疎開し、同年12月18日に無動力回送で出水を出発。高崎操車場に着いたのは約10日後の12月27日のことでした。高崎で行われたのでしょうけど、一旦、解体して、翌年1月から伊勢崎で再度組み立てを行い、3月に入って公開されました。
ボランティアの手によって、外面だけは塗装を施したり、運転室の公開も制限するなど、整備だけはキチンと行われていたようですが、屋根が無いため、雨晒しでの保存展示は否めませんでした。それでも他地区で保存展示されている機関車に比べたら、保存状態は比較的良好だったのが、後々の復活に際しての決め手となるのです。
民営化後、JR東日本ではD51 498の復元工事を行い、高崎線で観光列車を運転していましたが、1両しか無いので、需要と供給のバランスが取れず、そういう時には真岡鐵道からC11 325や秩父鉄道からC58 363を借りたりしてその場を凌いでいました。しかし、C11は小型機関車であること、C58は保安装置の関係で、それぞれJR線上を走ることが出来なくなり、平成11年に2両目の動態保存機として復元したC57 180は、あくまでも 「ばんえつ物語」 用の機関車なため、高崎線での運転は、事実上不可能な状況でした。
こうした中、平成20年に東北地方へ “営業” に行ってたD51 498が小牛田で準備中、スタッフのミスで空焚き事故を起こしてしまいます。これで1年弱、D51が使えなくなり、D51の予備機扱いで、新たなSLの復元工事が企画され、リストには群馬県の碓氷鉄道文化むらに保存されているD51 96号機や、JR北海道で一時期復活していたC62 3号機、そして鉄道博物館に保存されているC57 135号機なんかが候補に挙がっていたそうですが、最終的に華蔵寺に保存されているC61 20が復元されることになりました。前述のように、華蔵寺で保存されている頃は、ボランティアの手で整備がキチンとされていただけでなく、元々、C61はD51とC57の合いの子のような機関車なので、両機を復元しているJR東日本にしてみれば、整備面や運転面などで有利だという理由も含まれています。
平成22年1月に華蔵寺での公開を終了し、程なくして現地での解体工事に着手、テンダー、ボイラー、足回りの3つに分解されて、大宮総合車両センターに到着しました。ここから1年かけて復元工事が実施されるわけですが、この模様を映画監督の山田洋次氏が 「記録として遺したい」 と依頼があり、平成23年7月に 「NHKスペシャル 復活~山田洋次、SLを撮る」 として放映されました。同年、DVD化されています。
復元工事にあたっては、当然のことながら、可能な限り現役当時のスタイルを堅持した工事を実施しましたが、C61 20が現役の頃と今のJRの線路事情は大きく様変わりしています。よって、復元工事と並行して、現在のJR線上を制約無しに走れるように、各種追加改造が施されています。
テンダーには重油バーナーで噴射することで火力を高めてパワーを引き出すテンダー後部に重油タンクが取り付けられました。C61で重油タンクが取り付けられたのは現役時代も含めて無かったことです。重油タンクはテンダーの水容量の関係から、D51やC57のように甲板内側に収まりきらず、甲板からやや突き出した格好になります。それをカモフラージュするため、テンダー前部にD51で実例のある増炭板を設置しました。また、ATS-Pも取り付けなければなりませんので、それを隠すために、スノープラウを常時取り付けています。LP402型前照灯やLP405型副灯と合わせて、東北仕様での復元になりました。ATS-Pの装着に際しては、その電源も必要となるので、タービン発電機を2機搭載しています。
新製当初、装備されていたメカニカルストーカー (自動給炭機) は撤去されています。これは戦後における石炭の貧弱さから比べたら、現在の石炭の方が品質が良くて熱量も高く、また、現役のように全力疾走するわけではないので、自動給炭機も必要ないだろうという判断の下での撤去でした。
画像はいつ撮られたものかは判りかねますが、架線柱が立ち並んでいますので、電化工事が始まった日豊本線ではないかと思われます。しかも、宮崎以北ではないかと。南宮崎-鹿児島間の電化は、昭和54年ですので、C61が活躍していた頃の南宮崎-鹿児島間では、架線柱すら立てられていないからという判断によるものです。
今年の夏もD51 498とともに上州路を駆け抜けるんでしょうね・・・。
と言いますか、そろそろ12系や旧形客車の代替車両を造り替えませんかねぇ~。
【画像提供】
ウ様
【参考文献・引用】
ウィキペディア (国鉄C61形蒸気機関車、JR東日本C61形20号機、日豊本線)