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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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麺プレッション581~道楽

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アルテッツァの点検をするために、百合ヶ丘に向かっていました。
高速は東名、首都高ともに大渋滞だったため、時間に余裕があることから、一般道をずっと走っていました。第二京浜から中原街道を行き、さらに元住吉で尻手黒川道路を行くルートで進んでいましたが、五反田を過ぎた辺りで気になるラーメン屋の看板を見つけました。目黒川のほとりで車を停めて、そぞろ歩くこと数分、その看板のある場所に着きましたが、一瞬 「なぁ~んだ」 とばかりに少しだけ落胆。しかし、すぐに 「たまには食ってみようか」 と躊躇せずに入りました。
さて、昨日は何処に行ったのでしょう・・・。
行った店・・・・・・とんこつラーメン 道楽五反田店
場所・・・・・・・・・品川区西五反田1丁目 (山手通りと第二京浜の交差点近く)
食ったもの・・・・ チャーシューメン (半熟味付け玉子とのりをトッピング)
          ご飯を付けて ¥1,350-
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スープ・・・○
1986年創業の豚骨醤油ラーメンの老舗ですが、如何にも家系を○○ッたような外面です。でも、いわゆる “インスパイア” 系ではないんですって。俄に信じ難いんですが。
「道楽」 は、鮫洲の本店 (No.348) と川崎店 (No.479) に次いで3店目になりますが、気がつけばこの 「道楽」 もチェーン店になってしまいました。 “外資 (注:外国系企業ではなくて、その業種とは無縁の国内企業のこと) ” が介入しているみたいで、ラーメン業界もそういう企業の後押しが無いと今後の経営に影響が出るのかもしれませんね。
たまには別のメニューでオーダーしようと思うのですが、結局は基幹メニューである “豚骨醤油” のラーメンをオーダーすることになるんですよね。冒険するのも良いんですが、逆にそれ (基幹メニュー) が一番当たり障り無くて、その店の実力を判断出来る基準にもなりますしね。
待つこと数分、オーダーしたラーメンが運ばれてきました。隣で食っていたおっさんの手も写ってしまいました。

始めの一口ぃ~

あんまり味を感じなかったですね。
鮫洲にしても川崎にしてもダシとタレのバランスが取れていて、 “豚骨醤油” がキッチリとアピール出来ているスープだったんですが、五反田はそういうのがあまり感じられませんでした。強いて挙げるなら 「ダシ7:タレ3」 の割合かなと。つまり、醤油ダレの味をあまり感じなかったということ。工藤くは無いんですが、何かミオチクリンな味だったのは否めません。
 
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麺・・・◎
「道楽」 の麺って、こんなに細かったっけ・・・?
「道楽」 の麺は、自家製麺じゃなかったっけ・・・?
調べてみると、鮫洲も川崎も同じ大橋製麺製でした。そうだったっけ・・? 何かで勘違いしてますね。
鮫洲も川崎も麺の茹で加減は評価はあまり高くないんですが、五反田はなかなか良い感じの固さに仕上がってましたよ。特に最初の一口二口は絶品級でした。
 
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チャーシュー・・・S◎

ぜぇぇぇ~~~っっっぴぃぃぃ~~~~んっっっっ!!!!

のっけから叫んじゃいました。
素晴らしいチャーシューですねぇ~。
厚み、大きさ、柔らかさ、ジューシー感と、どれを取っても一級品であることに変わりありません。
近年、なかなかこういう一級品のチャーシューに出会うことが少なくなっていますが、たまにこういうのに出くわすから、その美味さが一段と身に染みるんですよね。
 
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玉子・・・◎
白身の弾力感、熟し加減は超一級品です。黄身もしっかりと味が付いていたのですが、若干、しょっぱかったかな。もう少しその味を抑えれば “S◎” は確定でした。でも、素晴らしい玉子であることに変わりはありません。
 
総合評価:A1
 
鮫洲本店の評価を上回りました。
スープにもう少しメリハリがあれば、 「麺プレ審議委員会」 を召集しても良かったんですが、やはりスープかな。この一点に尽きます。
いずれにしても、久々のA1評価ですので、暑い中突如思い立って行った甲斐はあったかなと思います。
 

ごちそうさまでした・・・

 
 

第241回

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第241回放送 (1982年9月23日)
第1位:待つわ/あみん 
第2位:NINJIN娘/田原俊彦 
第3位:小麦色のマーメイド/松田聖子 
第4位:哀愁のカサブランカ/郷ひろみ 
第5位:ハイティーン・ブギ/近藤真彦 
第6位:ダンスはうまく踊れない/高樹澪 
第7位:100%・・・SOかもね!/シブがき隊 
第8位:けんかをやめて/河合奈保子 初
第9位:少女A/中森明菜 
第10位:暗闇をぶっとばせ/嶋大輔 
 
スポットライト:一風堂 「すみれ September Love」 
ついにあみんが1位に躍り出ました。しかし、この回は二人とも試験だったために出演はなりませんでした。
前回初登場した高樹澪ですが、この頃の女優にしては珍しく、黒髪ロングがもの凄い美しかったなって子供心 (中学生でしたが) に感じました。21世紀の現在は仲間由紀恵や小西真奈美辺りが黒髪ロングが似合う女優さんでしょうけど、高樹澪はその先駆者になったような感があります。あの頃はいわゆる “聖子ちゃんカット” が流行ってて、女性特有の長い髪は持て囃されなかったんですね。そういう意味で高樹澪は稀有な俳優として重宝されます。でも、後の 「スチュワーデス物語」 で、役になりきるためにあの髪を切っちゃうんですよね。あれは日本航空の社則で 「スチュワーデス (→キャビン・アテンダント) の髪の長さは何センチまで」 という決まりがあり、それに従って切ったものなのだとか。それもまた 「役者魂」 と言うのでしょうか。
河合奈保子がほぼ1ヶ月ぶりに新曲を引っ提げて登場します。この 「けんかをやめて」 は確か、竹内まりあの作品じゃなかったかな? 今も昔もアイドルというと楽天的且つ脳天気的な歌が多いのですが、この 「けんかをやめて」 はアイドルにしては珍しい、しっとりとしたバラード調に仕上がっており、河合奈保子のナンバーの中でも名曲の一つに数えられています。後に作者の竹内まりあ本人によるセルフカバーバージョンも発表されています。
「スポットライト」 は一風堂。ラーメン屋じゃありませんよ。
特にリーダーが誰なのかは分からないのですが、一番メジャーな人はやはり、ヴォーカルの土屋昌巳でしょうか。
土屋昌巳はスタジオミュージシャンで、りりぃや大橋純子のバックバンドを経て、1979年に一風堂を結成。バンドは1984年に解散するのですが、その間にイギリスのロックバンド、ジャパンのワールドツアーにサポートメンバーとして活躍し、その名は一気に世界に広まります。
この 「すみれ September Love」 は、化粧品のCMソングに採用されて注目を集めていました。う~ん、やはり化粧品は強いですね。
 
 
 

日比谷線といえば・・・

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私は今、通勤に東京メトロ日比谷線を使っていますが、昨年、東急東横線と東京メトロ副都心線が直通運転することとなって、東急、東京メトロの他に西武、東武 (東上線) の車両も乗り入れてくることから、これに日比谷線の車両が入ると東横線がパンクしてしまうという懸念から、日比谷線の東横線乗り入れは廃止され、東急の車両 (1000系) も日比谷線に乗り入れなくなりました。今は東京メトロが03系、東武が20000系シリーズ (20000系、20050系、20070系) が運行しており、一頃に比べるとちょっと寂しくなったかなという気がしないでもありません。菊名行きも日吉行きも見られなくなりましたが、その見返りかどうかは定かではないのですが、東武側の直通運転区間を南栗橋まで延長しました (以前は東武動物公園まで) 。
元々、日比谷線の東横線乗り入れは、2001年の営団地下鉄南北線・都営地下鉄三田線・東急目黒線が田園調布から東横線に乗り入れるようになって、そのウェイトを目黒線に置いたことから、日比谷線の頻度を少なくして本数を減らしていたので、東横線内で日比谷線の車両を見る機会は少なくなっていましたが、副都心線の進出がとどめとなったようです。
 
画像は03系登場前の日比谷線の主力である3000系電車です。ヲタの間では 「マッコウクジラ」 というニックネームが付いているようですが、私、今だに 「3000系=マッコウクジラ」 の命名理由がよく理解出来ていません。 「マッコウクジラ」 という愛称が付いていることを知ったのもつい、こないだ (・・といっても、3000系が引退する時にそれを知り、  「そんな愛称が付いてたんだ・・」 と驚愕するくらいでしたから) でしたので、あらためて私は結構世間知らずのぼんぼんなんだなって実感しました。
 
3000系といえば、営団初のステンレス車体を用いた車両ということで、その後の東西線用5000系の登場に大きく寄与することになるのですが、5000系が登場すると、今度は試作的にアルミを用いた車両を製作して比較検討した結果、コスト的にもアルミの方が安く済むことから、千代田線以降の車両はアルミ車体で製作されることになり、銀座線や丸ノ内線、そして日比谷線の置き換え車もアルミ車体になりました。営団次世代の車両ということで大いなる期待を抱かせたステンレス車体は3000系と5000系のみで終わってしまいました。
また、3000系は一部車両を除いて、東急と東武相互の保安装置を持つことになり (東急は北千住までで、東武は中目黒までの運行だったため、それぞれ自社と営団の保安装置しか装備しておらず、東急が東武に、東武が東急に乗り入れることは出来ない) 、東武動物公園発菊名行きという列車も営団の車両が担当しました。一部車両というのは、2社限定仕様というのが存在し、東急線に乗り入れ出来ない車両とか東武線に乗り入れが出来ない車両とかがあったそうです。だから当該車両が検査や整備などで運用から外れる時は、運用面で支障をきたさないように整備や検査のシフトを組んでいたようです。03系は全車が3社乗り入れ仕様になっているため、そういった問題は解消されました。
 
撮影時期 (1992年だそうです) 、東急は既に新形車両 (1000形) に全て置き変わっており、東武も20000系との置き換えが進んでいて、初代乗り入れ車両である2000系は風前の灯火状態でした。そういう意味では、営団が3000系と03系、東急が7000形と1000形、東武が2000系と20000系が入り乱れた1989年が日比谷線の歴史の中で一番華やかだった時代だと言えるかもしれません。
東武2000系は1993年までに、営団3000系は1994年までにそれぞれ新形との置き換えが完了し、新たな時代を迎えることになります。
 
引退後は一部が長野電鉄に譲渡されて、3500系電車として現在でも活躍中です。しかし、東急の8500形電車が数を増やしている関係と木島線や屋代線の廃止で、3500系の活躍場所も狭められていることから、早期の廃車が懸念されていますが、8500系は信州中野-湯田中間に乗り入れることが出来ないため、しばらくは活躍するものと思われます。廃車になった車両のうち、3001と3002が技術伝承を兼ねた動態保存をするため、2007年に東京メトロに戻ってきました。但し、千住ではなくて綾瀬工場に引き取られ、毎年秋に行われるイベント時に姿を見せてくれます。
 
聞けば、そんな日比谷線にも新車が入るようですね。
今まで18m級3扉車を開業時から採用してきた日比谷線ですが、2016年度から20m級4扉車を導入することが決定、さらにホームドアも設置されるとのことなので、今後、日比谷線は大規模な改修工事が行われる模様です。5扉車も無くなるんじゃないかな。20m級の車両で築地や日比谷、はたまた六本木などの急カーブを曲がれるんですかねぇ~? 因みに北千住-上野間は東西線用5000系の試運転が実施されたこともあって、入線は可能です。
 
20m級車両がデビューするまで、私は今の職場に居ることが出来るのでしょうか・・?
 
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
営団地下鉄車両写真集 (改訂前~交通新聞社 刊)
ウィキペディア (東京メトロ日比谷線、営団地下鉄3000系電車、長野電鉄3500系電車、長野電鉄屋代線)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

3連休終わり の巻

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7月27日 (日曜日) 晴れ
 
金、土、日と続いた3連休もあっという間に終わりましたが、今回は体調不良のせいか、楽しめませんでした。
金曜日は病院に行き、喉と鼻を治療したというのはお話ししました。しかし、あまり食欲が湧きません。夏バテでしょうか。ベストコンディションなら早朝ドライブ (もしくは早朝ツーリング) に出掛けようかなって思ったんですけどね。
 
土曜日は、アルテッツァの点検、車検前の点検です。しかし、ここでも暑さでバテ気味でした。 「 “暑い夏” が何よりも大好き」 「太平洋高気圧をリスペクトしてる」 私にすれば、夏バテというのはあってはならないことなんですが、ちょっとキツかったです。ただ、そうは言っても幾分回復傾向にあったので、無理をおして日曜日に早朝ドライブに行こうと考えました。しかし、今度はアルに問題が発生。エンジンを回すのに重要なパーツであるファンベルトがかなりヤバい状況にあるという検査結果が出ました。劣化が激しく、いつ切れるか判らない。すぐにでも取り替えて欲しかったのですが、生憎、ディーラーに在庫が無く、今日の今日交換するのは不可能なんだとか。再来月は車検なので、その時に修理すれば良いかなと考えていたのですが、それまでに切れても同じことなので、パーツだけ発注して、翌週の日曜日に取り替えてもらうことになりました。
 
そして今日は、さらに暑さを感じまして、絶好のお出かけ日和ではあったんですが、午後から雨が降るということと、明日からまた長丁場の仕事なので、英気を養うことにしました。だから今日は家でひたすらゴロゴロしていました。
 

嗚呼・・国鉄時代 (189)

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21世紀になって、再び列車内における供食サービスが脚光を浴びていますね。
現代に蘇った供食サービスは、さすがに殆どが観光客をターゲットにしたもので、既存の車両を改造したりあるいは改造をせずに単にテーブルなどを設けたりして、外注に作らせた料理を提供するスタイルが主体となっているようです。近鉄にお目見えした新型特急 「しまかぜ」 にも “モハシ (モシ?) ” が連結されて、地の食材を使った料理が食べられるということで (レトルトでしょうけど) 、今から楽しみなんですが、かつての国鉄には特急や急行などの優等列車の編成には必ず食堂があって、車両にある厨房でコックが調理して、出来上がった料理をウエイトレスが運び、乗客は出来立ての熱々の料理を食べられた時代がありました。味にうるさい乗客の一部に 「高くて不味い」 と酷評されたようですが、私に言わせれば 「贅沢なこと言ってんじゃねぇ~よっ!!!」 ですよ。揺れる車内の中で、コックは次々に繰り出されるオーダーに応じて、腕を振るっているわけですから、少々味が落ちるくらい、我慢しろよと言いたくなります。確かに、昭和50年代に辛うじて生き残った特急の食堂車の中には、レトルト食品を使っていたり、あるいは事前に下ごしらえだけして、食堂内ではレンジでチンするだけという話を聞いたことがありますが、冷めた弁当を食わされるよりよっぽどマシだと思っていました。実際に私も特急 「白山」 で食堂車を利用したことがありますが (往路はサンドイッチ、復路はカレー) 、決して不味くは無かったと記憶しています。
 
人件費の問題やコックの確保、食材の衛生上の問題やら何やらで、昭和50年代以降、急激に姿を消していった食堂車。今は 「北斗星」 「カシオペア」 「トワイライトエクスプレス」 といった寝台特急にしか連結されていませんし、この3列車についても常に去就が取り沙汰されています。 「トワイライト・・」 は来年廃止が決定していますし、北海道新幹線が開通すれば 「北斗星」 も 「カシオペア」 もヤバいとされており、となると、もはや食堂車そのものが過去帳入りする日も遠くないのかなと、一抹の寂しさは拭いきれません。
 
さて、特急列車の食堂車は基本的に全室食堂という車両が一般的でしたが (151系には半室食堂車があった) 、急行電車の食堂車は画像のような半室食堂車が主流でした。気動車急行には存在せず、客車急行もオシ17の火災事故 (いわゆる 「急行 「きたぐに」 北陸トンネル火災事故) で一気に消滅。残った電車急行も50.3改正以降、運転区間の短縮や特急格上げなどによる列車の廃止、あるいは編成の短縮によって、ほぼ全滅に近い状態になりました。連結されていたとしても、食堂の営業はしていない列車が殆どで、最後まで営業を続けていた 「アルプス」 の食堂営業は昭和51年10月いっぱいで終了し、電車急行の食堂営業は幕を下ろしました。
ただ、 “半室食堂車” というだけあって、半分は座席であったことから、着席出来る乗客の確保とMG (電動発電機) を備えていたため、編成から外されないでそのまま連結されていた列車が散見されました。 「アルプス」 を始めとして、 「信州」 「妙高」 「佐渡」などの上信越急行、 「立山」 「ゆのくに」 などの北陸急行、 「まつしま」 「いわて」 などの東北急行にサハシは連結されていました。しかしそれも束の間、53.10改正で編成の見直しが行われ、上記の急行に連結されていたサハシは 「アルプス」 を除いて全て外され、そのまま廃車となってしまいました。
 
さて、画像は153系の半室食堂車、サハシ153です。
元々、準急用として製造された153系ですが、80系を上回るホスピタリティが好評だったことから、急行にも進出することになり、昭和36年10月のダイヤ改正で 「いこま」 「なにわ」 「やましろ」 「よど」 「せっつ」 といった列車に153系が充当されることになりまして、それに伴ってホスピタリティを更に上げるため、リクライニングシートを備えた一等車 (サロ152) と半室食堂車 (サハシ153) を製造し、それを2両ずつ連結しました。153系の急行初進出は前年に客車急行から電車化された 「せっつ」 なんですが、その時は食堂車の連結は無く、一等車も転換クロスシートのサロ153だったため、 「これじゃあ、急行のメンツがない」 とリクライニングシート付き一等車と食堂車の製造・連結を行うことになりました。だから 「36.10改正で導入された」 という記述は正確には誤りで、 「36.10から “本格的” に導入」 といった書き方の方が正しいかも知れませんね。 
 
36.10改正から遡ること半年前の昭和36年3月、 「せっつ」 とその時客車急行から電車化された 「なにわ」 にサロ152とサハシ153が連結されましたが、サハシ153を語る上で絶対に外せないのが 「寿司コーナー」 でしょう。電車内で何とお寿司が食べられたのです。しかも職人さんが一つ一つ握った本格的なもの。今ほどネタにバリエーションは無かったものの、それでも “電車寿司” は大盛況だったそうで、今じゃ絶対に考えられないサービスですよね。酒燗器も備えられていて、熱燗も注文することが出来ました。
なお、2両連結されていたサハシのうち、1両はノーマルのビュッフェで、こちらは軽食が食べられました。また、当時はサロ152といえど冷房が取り付けられていませんでしたが、サハシ153の食堂部分だけ冷房が最初から取り付けられていました。
 
昭和39年10月の東海道新幹線開通とともに、東京-大阪間の電車急行は 「なにわ」 を除いて全廃 ( 「なにわ」 も43.10改正で廃止された) 。サハシ153は山陽本線の急行 「関門」 「宮島」 などに連結されましたが、寿司コーナーは寿司職人の人員不足もあって程なく営業終了。30両製造されたサハシ153はサハシ165に5両 (改造後はサハシ165の50番台となる) 、サハシ169に10両、事業用車クヤ153とクヤ165にそれぞれ改造されて、残る13両も昭和51年までに全て廃車となっています。サハシ169は全車がサハシ153からの改造で、オリジナルの新製車両はありません。
画像のサハシ153-18は最後まで153系を名乗っていたうちの1両で、昭和47年に宮原電車区 (大ミハ~現在のJR西日本網干総合車両所宮原支所) から下関運転所 (広セキ~現在のJR西日本下関総合車両所運用研修センター) に転属して山陽急行に使用されていましたが、ビュッフェの営業は既に休止となっていました。
 
前述のように、サハシ153は昭和51年に形式消滅しますが、このうち、近年までクヤ165が残されていました。顔面は165系に似たスタイルでしたが、側面は種車の面影が残っており、昭和62年の廃車後は佐久間レールパークに保存されていました。しかし、平成23年にオープンした 「リニア・鉄道館」 の保存対象から漏れて、佐久間レールパークの閉館とともに解体されてしまいました。以前にも弊愚ブログで取り上げたことがありますが、重ね重ね勿体ないなって気がしました。現存する唯一の電車急行の食堂車だっただけに、出来得ればサハシ153に戻して、 「リニア・鉄道館」 に保存して欲しかったです。そうしたら、食堂車に対する見方というのがもう少し変化したのではないでしょうか。
 
冒頭でも申しましたように、今、列車内の供食サービスが見直されています。
私は基本的に駅弁は食わない主義でして、どんなに地産地消の良い食材を使っていたとしても、昭和末期の食堂車じゃないけど 「冷めてて不味い」 という印象は拭えていません (ただ、富山 「ますのずし」 だけは別格) 。例えそれがレトルトでも、熱々で出来立ての料理を車窓を眺めながらいただく・・これが良いんじゃないですか。
鉄道技術界のカリスマとして伝説の存在になっている国鉄の副技師長・星晃氏のコメントにこんな言葉があります。
「食を楽しめる設備がないと、鉄道は生き残れないかもしれません」
私も同感だと思います。
 
列車食堂よ、再び・・・。
 
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
「国鉄車輌誕生秘話」 (ネコ・パブリッシング社 刊)
キャンブックス 「国鉄急行電車物語」 (JTBパブリッシング社 刊)
鉄道ピクトリアル 平成24年9月号 「特集・事業用車両」 (電気車研究会社 刊)
国鉄監修 交通公社の時刻表 昭和53年8月号 (日本交通公社 刊)
ウィキペディア 「国鉄153系電車」 「国鉄165系電車」 「JR西日本下関総合車両所」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「日本を取り戻す」 ということは、 「大日本帝国に戻す」 ということなのだろうか・・? の巻

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7月30日 (水曜日) 晴れ
 
今日、仕事をしていたら、とある公園でクマゼミが鳴いているのを耳にしました。へぇ~東京でもクマゼミが生息しているんだ・・。そういえば、ディズニーランドでも聞いたことがありますし、葛西 (清新町) でも聞かれました。クマゼミが好む木々がそういう場所にあるんですかねぇ~? いずれにしても、 “クマゼミ信者” の私には最高のヒーリングサウンドです。まぁ、関西に行けば至極普通に、且つ五月蝿いくらいに鳴いてますけどね。
 
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さて、これはうちの近所に貼ってある自民党のポスター。
まだ自民党が野党の時代に、当時与党だった民主党をぶっ潰す為に作られたポスターでありまして、国民は民主党の勉強不足のせいで日本がひっちゃかめっちゃかになったと思い込んでいて、自民党がそれに託けてこのようなスローガンを掲げて民主党潰しに躍起になっていたのは皆さんも記憶に新しいかと思います。
 
しかし、今になって考えてみたら、やはり大多数の国民は 「騙された」 と思っているんじゃないでしょうか。今だにこの 「日本を取り戻す」 という意味が理解出来ないのですが、民主党によって亡国になった日本を取り戻すというというのが表向きの意味合いなんでしょうけど、私に言わせれば、この時から既に 「第二次世界大戦前の “大日本帝国” に戻す」 「官僚主体の癒着政治に戻す」 という意味合いの方が濃いと思うのですが、要は「戦争がしたい」 「 “民” が主役ではなく、 “官” が主役」なんでしょう。その為には官僚側としては自民党に政権に返り咲いて欲しいと思っていただろうし、国民はまんまとその口車に乗せられてしまったんでしょう。
 
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右下にご注目。
「驕らず」 って書いてあるけど、見事なまでに驕り高ぶってますよね。
「謙虚に」 って書いてあるけど、全然謙虚じゃないし、そして何よりも国民の耳に傾けることなく、国民が 「嫌だ」 と言っているのを無視して、あれこれ政策を決定していますし。
「直向きに」 って書いてあるけど、全然旧態依然化じゃん。
結局、このポスターはまさに 「看板に偽りあり」 なんですよ。
しかも、このポスターの掲示責任者はご存じ、日本維新の会の女性議員にセクハラヤジを飛ばした張本人ですしね。
 
こんなんで、本当に自民党が信頼出来る政党なのかどうかを、今一度、皆さんで考えてもらいたいと思います。
 

第242回

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第242回放送 (1982年9月30日)
第1位:待つわ/あみん ②
第2位:NINJIN娘/田原俊彦 
第3位:小麦色のマーメイド/松田聖子 
第4位:けんかをやめて/河合奈保子 
第5位:ダンスはうまく踊れない/高樹澪 
第6位:哀愁のカサブランカ/郷ひろみ 
第7位:ハイティーン・ブギ/近藤真彦 
第8位:6番目のユ・ウ・ウ・ツ/沢田研二 初
第9位:少女A/中森明菜 
第10位:100%・・・SOかもね!/シブがき隊 
 
スポットライト:ビートたけし 「OK!マリアンヌ」
上位3曲に変動はありません。前回8位だった河合奈保子が4位までジャンプアップしましたが、前回も申したように、この 「けんかをやめて」 は、河合奈保子ファンの間でも特に人気の高い作品だという話を聞いたことがあります。そして、聞くところによると、 「今、復帰して欲しい芸能人」 の上位に入っているそうですね。愛娘もデビューしたことだし、特段ファンじゃないけど、久しぶりに姿を見たいなというのも事実だったりします。
 
この頃、現在の港区西麻布にある首都高速道路3号線の 「高樹町」 インター (当時は 「ランプ」 といった) の存在を知ったのですが、今でも高樹町を通ると、何故か高樹澪のことを思い出します。因みに私、 「たかぎ みお」 と読めず、ずっと 「たかぎ れい」 だと思い込んでいました。
 
スポットライトはビートたけし。今は単独での活動がメインですが、この当時は漫才コンビ 「ツービート」 のボケ役で人気を博していた頃。前年から爆発的なブームになった漫才。その殆どが 「B&B」 や 「ザ・ぼんち」 「紳助・竜介」 といった吉本興業系のコンビが人気の中心でしたが、ツービートはその中にあって数少ない関東系のコンビでした。ブームになったのは前述のように1981年頃からでしたが、ツービートの結成はさらに10年を遡りまして、1972年に結成していました。
漫才の傍らで、双方で歌も出していますが、ツービートとしてはレコードは出しておらず、たけし、きよしそれぞれピンで出していただけと記憶しています。 「ザ・ベストテン」 の出演は、前年のザ・ぼんち以来になりますが、確かに (たけしは) 歌は上手かったと思います。

嗚呼・・国鉄時代 (190)

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今となっては懐かしい、京阪神緩行線 (または東海道・山陽緩行線、あるいは大阪緩行線) の103系です。
 
説明するまでもなく、 「京阪神緩行線」 というのは列車運転上の愛称でありまして、京都-神戸間が東海道本線、神戸-西明石間が山陽本線となります。この辺りは東海道本線東京口における京浜東北線と同じ扱いなんですが、よく考えてみますと、東海道本線の東と西の末端における各駅停車用の車両は青色なんですね。東の末端は 「京浜東北線」 と一応、愛称であるものの路線名はありますが、京阪神緩行線はどうなんでしょう? 今でこそ、 「JR京都線」 「JR神戸線」 と呼ばれていますが、国鉄時代は 「大阪駅から京阪神緩行線に乗って、甲子園口まで行くでぇ~」 という言い方をしていたのでしょうか? 因みに京浜東北線という路線名はきちんと方々に浸透していまして、 「東海道・東北緩行線」 という言い方はしません。
 
京阪神緩行線の103系は、阪和線に次ぐ投入路線で、昭和44年に第一陣が明石電車区 (大アカ~現在のJR西日本網干総合車両所明石支所) に投入されたのが最初です。3扉・4扉混成編成の旧型国電が幅を効かせていた昭和40年代前半、外側線 (列車線) を走る快速電車とかは113系などの新性能電車が次々と投入されていく中で、内側線 (電車線) はまだ旧形車両だったことから、ダイヤ上、内側線の緩行線用の車両も新形車両の投入を望む声が高まっていました。しかし、他の通勤線区同様、103系の投入となると、様々な問題が浮上し、なかなか 「んじゃ、103系で・・」 と簡単にはいきませんでした。というのも103系は、駅間距離の短い線区用に設計された車両で、大阪で言えば、大阪環状線がそれに該当するかと思うのですが、京阪神緩行線の場合、駅間距離はもとより、運転距離もハンパありません。103系の本来の設計思想からだと京阪神緩行線は不向きな路線です。しかし、常磐線や阪和線での投入実績を踏まえ、 「長距離や高速運転でも103系は大丈夫」 との判断の下で、京阪神緩行線にも103系の投入が決定しました。
103系は陸上選手に例えて言うなら、いわゆる 「スプリンター」 、つまり、短距離ランナーです。それとは対照的に101系がマラソンを始めとする長距離向きの車両。常磐線にしても、阪和線にしても、京阪神緩行線にしても、短距離専門の選手にマラソンを、しかも高速でマラソンをやらせるようなものでして、103系自身も相当キツかったと思います。でも、赤字続きの国鉄、 「101系だ、103系だ言っている場合じゃない。何処でもいいから車両の標準化、統一化を図れ」 という国鉄本社の指示の下で、想定外の線区にも103系は投入され続けました。逆に中央線快速や山手線、大阪環状線に投入されていた101系を常磐線や阪和線などに投入すれば、101系本来の力を発揮したかもしれませんよね。
 
元々、京阪神緩行線の103系投入は翌年の万博輸送が大きく影響しており、スピード面で外側線と互角に渡り合えるという思惑も絡んでいたようで、就役当初は万博のステッカーを貼って運転されていました。
昭和47年に新快速が153系化されると、旧型国電とのスピード格差がさらに顕著なものになり、緩行線の車両が待避駅まで逃げ切れない時もしばしばあったとか。それを危惧した大阪鉄道管理局は、京阪神緩行線の完全新性能化を国鉄本社に懇願しますが、完全新性能化まではさらに3年を要することになります。
 
京阪神緩行線の103系で忘れられないのが画像にもあるように、行く先表示。京都-西明石間といえど、京都-吹田間とか大阪-神戸間、京都-甲子園口間など、区間運転は多岐に渡ってた筈の京阪神緩行線103系ですが、投入当初は 「普通」 で一本化していました。その意味がよく解らないのですが、単に面倒臭いから? とも取れてしまいます。昭和48年に新製冷房車が投入されると、満を持して 「京都」 「高槻」 「吹田」 「大阪」 「甲子園口」 「神戸」 「西明石」 などの行く先を掲示するようになりました。
 
もう一つ、京阪神緩行線103系には名物車両がありました。
殆ど関西にしか配置されていない 「第一次改良車」 です。
昭和45年に山手線に試作冷房車10両が配置されて、将来的な通勤冷房の実現に向けて各種試験が行われましたが、この試作冷房車にはもう一つ、103系の歴史を語るに外せないアイテム、 “ユニット窓” が採用されたのは皆さんもよくご存じのことかと思いますが、翌年から製造されたグループはこのユニット窓を本格採用し、先頭車の前面形状もリニューアル。従来の白熱灯1灯からシールドビーム2灯に改められ、今後の103系の製造に大きな波を立てることになります。
 
また、103系冷房車の第一陣も京阪神緩行線に投入されました。
山手線における冷房車の試験結果が上々だったことから、前述のように昭和48年製造分からいよいよ本格的に冷房装置が取り付けられるようになりました。今回の投入先は明石電車区ではなく、高槻駅の京都寄りにある高槻電車区 (大タツ) でした。今まで東京で活躍したセコハンを関西に持って行くというフローが一般的でしたが、ここに来て、ようやく新車をそのまま関西に投入するケースが目立ってきたわけです。
 
以来、京阪神緩行線は103系の天下でしたが、昭和57年から201系が配属され、余剰となった車両は関西線や阪和線に転属となります。さらに昭和61年には205系が新車で投入され、103系の牙城が崩れつつありました。JRになってからは、103系の牙城がさらに崩れまして、平成5年にはついに207系 (1000番台) が登場し、次々と103系を置き換えていきます。その年の3月には京阪神緩行線における103系の営業運転は終了し、森ノ宮や日根野、あるいは奈良に転属し、さらに岡山や広島にも転属されるなど、103系の広域転配が顕著なものになりました。なお、平成13年からは電化された山陽本線支線、通称 「和田岬線」 に103系を投入し、それまでロングシートの客車やキハ35などが活躍していた工業路線に103系が進出しておりまして、営業列車として本線には顔を出さないものの、往年の活躍ぶりを彷彿とさせてくれています。
 
さて、画像ですが、片方は冷房車でもう片方は非冷房車と、103系のバリエーションを垣間見ることが出来る画像だったりします。向かって右側が西明石行きであることから、画像奥が神戸側ということになります。一方、画像右側の非冷房車はそのスタイルから、初期導入車かなと推察出来ますが、行く先表示が単に 「普通」 だけなので、何行きかが判りません。側面にも行き先が無いから、あの頃の関西人から 「この列車は何行きやねんっ!?」 とクレームの連続だったかもしれませんね。
 
今は207系と321系が主力のJR京都線とJR神戸線、103系が活躍していた時もあったんや・・と懐かしんで下さい。
 
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
キャンブックス 「103系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)
 
 
 
 
 
 
 

虐待は問答無用で死刑にしてくれ の巻

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8月2日 (土曜日) 晴れ
 
8月になりました。
夏真っ盛りですが、来週はもう 「立秋」 、暦の上では秋になってしまいます。太平洋高気圧をリスペクトしている私にしてみれば、 「立秋」 という言葉を聞くだけで寂しさが込み上げてくるのですが、まだまだ暑い日々が続くことを取りあえず祈っています。
 
さて、西東京市で酷い事件がありましたね。
最初、 「何処だろう・・?」 ってずっと考えてたのですが、映像を観て 「あっ、あそこだっ!」 って判っちゃいました。
 
細かい経緯は割愛しますが、理由はどうであれ、虐待は絶対に許せません。その中学生とは無縁だけど、返す返す悔しいですよね。
自身の実子ではないにしても、子供は子供でしょ。それをボコボコにしただけじゃ済まなかったみたいで、 「24時間以内に死ね」 なんて、人間のすることじゃないですよ。さすがに本当にやりはしないけど、読者の皆さんの中にも 「代わってその継父を殺してやりたい」 って思っている方も少なくないのではないでしょうか。
 
前にも同じことを言ったような気がしますが、虐待によって死なせた場合、 「傷害致死」 ではなく 「殺人」 にするべく法改正をして欲しいし、問答無用で死刑にして欲しい。こういう奴は刑期を終えてシャバに出てきたって、また同じことを繰り返すだけだから、生きていたって意味がありません。死刑に出来ないのであれば、刑務所でそいつがしたことと同じことをやられればいいなと思います。今回の案件じゃありませんが、産まれたばかりの赤ちゃんを熱湯に入れて殺したりするというニュースもよく耳にします。抵抗出来ない我が子をどうやったら熱湯に浸けられるのだろう? だから、そいつは刑務所の風呂で70℃以上の熱湯にブチ込んでやれば良いんだって思います。
 
繰り返しますが、虐待はもはや 「しつけ」 ではありません。だから極刑を望みます。
 

ヘンなAQMV

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画像は2週間くらい前に上野・寛永寺駐車場で撮りました。
随分前にディズニーランドでMS8風に改造したエアロクィーン・MVを撮ったことがありますが (あの車は、バスマニアの間ではかなり著名な車らしいですね) 、画像の車もエアロクィーン・MVなんですが、雰囲気はかなり違います。
よく見ると、ライトユニットを変えてありますが、ヘッドライトはMS9用ですか? そしてウィンカーを含めた標識灯は隣のMS8のとそっくり。ライトユニットが本当にMS9用だったら、MS7、MS8、MS9のコラボレーションモデルということになりますか。アイラインを付けているのでそのものかどうかというのも判らないのですが、少なくともMS7オリジナルのライトユニットではないですね。
この辺りは識者の見解を待つしか無さそうです・・・。

「はやて」 登場前の東北新幹線のフラッグシップといえば・・・

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今でこそ、東北新幹線のフラッグシップといえば、E5系を使った 「はやぶさ」 であるのは皆さんもよくご存じの事かと思いますが、 「はやぶさ」 が登場する前は、E2系を使った 「はやて」 が東北新幹線では最上級の列車でした。では、 「はやて」 の登場以前は東北新幹線では何がフラッグシップだったのでしょうか。となればやはり、画像の列車をおいて他にはありません。200系2000番台を使用した 「スーパーやまびこ」 です。但し、 「スーパーやまびこ」 というのはあくまでも “通称” で、正式な列車名ではなく、時刻表でも普通に 「やまびこ」 と記されているにすぎませんでしたが、充当列車は決まっていたようなので、それに該当する列車には 「この列車には二階建て車両が連結されてますよ」 というマーキングが付記されていた筈ですので、容易に判別は出来たのかなと思います。しかし、この200系2000番台のスペシャル編成は、長く持たなかったような気がしてならないんですよね。気がついたら登場して、気がついたら消えていた列車のように感じます。
 
新幹線の二階建て車両の嚆矢は東海道・山陽新幹線の100系ですが、大量輸送から新幹線といえど、移動空間を楽しく過ごしてもらうという観点から、二階建て車両を連結するようになりました。
一方、東北・上越新幹線はま運行距離が短かったことから、それほどホスピタリティを重視した車両は製造されず、グリーン車は1両のみで、全室食堂車ではなく半室食堂車で事足りました。
国鉄最末期の1987年3月、200系の先頭車がモデルチェンジされ、100系と同タイプのシャークノーズ形に仕様変更されましたが、民営化後、東北新幹線でもホスピタリティを重視する声が高まったのでしょうか、二階建て車両の導入が検討され、それを具現化した二階建てグリーン車を組み込んだスペシャル編成が1990年6月に登場して 「やまびこ」 に充当しました。私も当初は、オール新製車かと思ったのですが、実は新製車はほんの一部で、2階部分がグリーン車、1階部分が普通車の個室という249形と100系に準じた先頭車数両だけを新製して、他の中間車は在来車両を組み込んだ編成だったのです。
 
東北・上越新幹線の東京乗り入れが実現した1991年3月には新たに二階建て車両1両を新製・増結して、さらに在来車を組み込んで16両編成としました。東北新幹線が開業して32年が経ちますが、単独での編成で16両というのが歴史上で一番長い編成になります (最も長いのは東北新幹線+秋田新幹線で17両というのがある) 。
新たに登場した二階建て車両 (248形) は、2階部分がグリーン車で、1階部分がカフェテリアという内容。一時期編成に組み込まれていた 「カフェテリア」 車両とは、いわゆる 「売店車」 みたいなもので、その場では飲食は出来ず、乗客はそこで食べ物や飲み物を買って、自身の座席で飲み食いするスタイル。100系の 「カフェテリア」 車両はイートインは出来ませんでしたが、200系の 「カフェテリア」 は小規模ですがイートインが出来ました。
 
この二階建て車両を組み込んだのは 「H編成」 と呼ばれ、6編成存在しましたが、前述のように栄華は長くは続かず、秋田新幹線の開業とE2系の登場によって活躍の場が狭められ (H編成は400系 (当時) やE3系との連結が出来ない仕様) 、2004年に全ての運用から離脱、最後まで残った車両も2005年に廃車されてしまいました。14年の儚い栄華でした。
200系は何両かの保存例がありますが、目つきの悪いシャークノーズ車は1両の保存例がなく、全て0系に似た団子っ鼻車両が保存車となっています。でも、0系に比べるとその保存例は極めて少ないのが現状だったりします。
 
100系にしても200系にしても同じことが言えるんですが、 「新幹線にホスピタリティを重視した車両は要らない」という烙印を押されてしまった感が強いですね。 今、新幹線で最上級車両に位置付けられる 「グランクラス」 は、確かに良い車両ではありますが (乗車経験有り) 、あれも長く乗っていると結構疲れるんですよ。そういった退屈しのぎに必要な車両が求められているのかなって思うのですが、今のJRにはアミューズメントを追求する気はなさそうですね・・・・。
 
【画像提供】
テック様
【参考文献】
ウィキペディア (新幹線200系電車)
 
 

鉄道模型ショーに行って来ました ①

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毎年の夏休みの名物企画となった 「鉄道模型ショー」 。今年も7月30日から8月4日まで松屋銀座で行われています。
日本における鉄道模型関連の大きなイベントは様々ありますが、今回のショーはNゲージメーカーが集うもので、今は 「日本Nゲージ鉄道模型工業会」 という組織名になっていますが、かつては 「全日本Nゲージ鉄道模型工業会」 と呼ばれていました。故に、ショーの名前も 「全日本鉄道模型ショー」 と言われていたんですね。これに対して、HOゲージなどの大型模型を扱うメーカーは 「日本鉄道模型連合会 (鉄模連) 」 という組織に加盟している例が多く、こちらが主催する模型ショーは 「日本鉄道模型ショー」 という名前で大田区の産業プラザで行われることが多いです。
私が模型を始めた1981年頃、一番最初に見に行った模型ショーが鉄模連のショーで、今は無き日本橋東急百貨店 (→日本橋COREDO) で開催されていました。しかし、鉄道模型関連の団体が二つあることを知らなかった私は、鉄模連のショーでもトミックスとか関水金属 (→カトー) の商品が見られると思って行ったのに、それらのブースが無かったので愕然としたのを覚えています。さらにとある雑誌で 「全日本鉄道模型ショー」 の開催告知が記されていて、場所が東京にある科学技術館と書かれていたからさぁ、大変。そう、全日本Nゲージ鉄道模型工業会のショーは当時は科学技術館で行われていたんですね。そこで初めて日本の鉄道模型関連の団体が二つあることを知りました。因みに毎年東京ビックサイトで開催されている 「国際鉄道模型コンベンション」 は日本鉄道模型の会 (JAM) が主催するもので、日本Nゲージ鉄道模型工業会と日本鉄道模型連合会の共催ではありません。
 
・・と前置きが長くなってしまったので、本題に入りましょう。
 
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まずはハセガワ (モデモ) から。
路面電車などの小型車両が得意なモデモですが、クオリティは高いと思っています。
新製品は東急世田谷線の150形と阪神国道線の70形。
今でこそ300形に統一されている東急世田谷線ですが、かつては緑一色の旧形電車がのんびりと走っていました。画像の150形は、その中でも取りあえず最新型だった車両で、画像は登場当時のカラーを纏った 「玉電仕様」 となっています。
一方、阪神国道線ですが、写真集なんかも出版されて俄に注目を集めていますが、その名の通り、野田から神戸の手前までを国道2号線に軌道を敷いて走らせていました。併用軌道線としては日本で一番長い路線だった阪神国道線は、モータリゼーションの発達による利用者減少で1975年までに姿を消しています。
画像の70形は、その窓の大きさから 「金魚鉢」 というニックネームがある阪神国道線の名物でもあり、主力でもありました。
モデモではこの他に、小田急20000系 「RSE」 のリニューアル製品も発表していました。
 
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続いてマイクロエース。
どんなにマニアックな製品を世に送り出しても、 「買おう」 という気になれないマイクロエースですが、ある模型ファンに言わせると 「一頃に比べてクオリティは高くなった」 と一定の評価はあるようなんですが、私は常に 「えぇ? これで?」 と疑義を訴えます。
ここのセールスポイントはその製品数の多さ。でも、1ロットで終わりというのも少なくなく、どっちかというと、コレクターズアイテム的な扱いになっているんですかねぇ~?
今年は東海道新幹線開業50周年ということで、ブースの一部でも東海道新幹線や開業前の東海道本線を彩った名車が展示されていました。
 
画像はEF13。デビュー当時はいわゆる “戦時設計” で、凸型車体を乗せていたのが特徴。
戦後、初代EF58のボディを載せ替えて昭和50年代前半まで活躍していました。
 
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こちらはDD53。
DD51をベースにした、国鉄最強の除雪用機関車ですが、近年はC57 180の検査時に 「ばんえつ物語」 用の客車を牽引してその存在感を十二分にアピールしたことでも知られています。
これもリニューアル製品かな? でも、これは良い感じに仕上がっていますね。ブルートレインを牽かせたら結構格好良いかも。
 
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一瞬、 「東武?」 と思わせるクリーム色1色の電車。でもよく見ると、山陽電鉄の3000系でしたね。塗装前 (帯入れ前) の試作品でした。
今でも山陽電鉄の主力として活躍する3000系ですが、製造時期が長いため、そのバリエーションもかなり豊富だそうです。画像の製品はおそらく、鋼製車かなと。私のイメージは、国鉄のスカ色を彷彿とさせる濃い青とクリームのツートンカラーなんですが、今はクリームをベースに赤と黒の帯を巻いた新色に統一されています。
 
次回はカトーとトミックスかな。
 
 
 
 
 

第243回

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第243回放送 (1982年10月7日)
第1位:待つわ/あみん ③
第2位:ダンスはうまく踊れない/高樹澪 
第3位:6番目のユ・ウ・ウ・ツ/沢田研二 
第4位:NINJIN娘/田原俊彦 
第5位:けんかをやめて/河合奈保子 
第6位:すみれ September Love/一風堂 初
第7位:少女A/中森明菜 
第8位:哀愁のカサブランカ/郷ひろみ 
第9位:小麦色のマーメイド/松田聖子 
第10位:ハイティーン・ブギ/近藤真彦 
 
スポットライト:海援隊 「遙かなる人」
あみんがV3を達成した10月最初のランキングですが、その変動の激しさが目を引いています。
「ダンスはうまく踊れない」 の3ランクアップ、 「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」 の5ランクアップ、 「小麦色のマーメイド」 の6ランクダウン、 「ハイティーン・ブギ」 の3ランクダウンなど、アップダウンが凄いですね。
ずっと9位に甘んじていた 「少女A」 がようやく動き出し、少しずつではありますが中森明菜の人気も上がるようになってきました。
前々回の 「スポットライト」 で注目を集めた一風堂が満を持して初登場します。この 「すみれ September Love」 は、化粧品のCMソングに採用されて脚光を集めましたが、1997年にSHAZNAがカヴァーしてリバイバルヒットとなりました。
「スポットライト」 は、海援隊。ということで、田原俊彦と近藤真彦の “教え子” と久々の再会を果たすことになるのですが、この 「遙かなる人」 は特別なタイアップをしているわけではないのですが、だからかな、全然知らない。
 

嗚呼・・国鉄時代 (191)

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中京圏に在住あるいは出身者の国鉄世代にはたまらなく懐かしいであろう、急行形電車を使った伝説の 「中京快速」 。今まで方々から様々な写真をいただいていて、中京快速も含まれていたのですが、今回初めて総天然色の画像をいただいたので取り上げる次第であります。
 
この 「中京快速」 は、浜松-豊橋-名古屋-米原間で運用されていた快速電車の愛称みたいなもので、大垣電車区 (名カキ~現在のJR東海大垣車両区) が運用を管轄し、117系 「東海ライナー」 が登場するまで、同区に所属していた急行用電車を活用して運転されていました。
同区には153系、155系、159系、165系と4形式の急行用電車が配属されており、名古屋-大阪間の 「比叡」 、大垣・豊橋-飯田・辰野間の 「伊那」 といった急行の他に、快速と一部普通といった運用が主な日課で、 「比叡」 は153系・155系・159系が、 「伊那」 は165系が担当していました。同じ飯田線内を走っていた 「天竜」 「こまがね」 は長野か松本所属車が担当していたのでしょう。
 
で、何が “伝説” かと言いますと、その編成のバリエーション。同じ編成は二度組成出来ないのではと言われるほど、その内容は鉄道模型も真っ青のごちゃ混ぜぶり。当時の編成を記録した方がいらっしゃれば、それはもの凄い重要な資料となるでありましょう。
 
「中京快速」 は基本は8両編成でして (6両編成というのもあったのかな・・?)  、153系、155系、159系、165系の単一形式のみで組成した編成や、153系+155系、153系+159系、155系+159系といった異形式混結編成、先頭車と電動車が異形式の編成 (例:先頭車は153系だが、中間車は155系とか、逆に先頭車は155系で、電動車は153系とかなどなど) も多く存在したみたいですね。なお、モーターの出力の違いや回路の違いなどがあって、互換性が無いであろう165系と153、155、159系との混結は無かったと思います (クハ165は別) 。
あと、昭和50年代には殆ど姿を消しているものの、僅かに153系の非冷房車や155系あるいは159系の 「修学旅行色」も残存していたみたいで、湘南色修学旅行色の混色・混結編成、冷房+非冷房、先頭車だけ非冷房で中間車が冷房車とか (逆もあり) 、クハ153やクモハ165、クハ164、クハ165にはシールドビームに改造された車もあったし、さらに昭和55年以降、新快速運用から離脱した宮原電車区 (大ミハ~現在のJR西日本網干総合車両所宮原支所) からの転属車も加わり、一時期的にではありますが、新快速色湘南色の混色編成も見られました。なお、155系と159系は最後まで冷房改造されることはありませんでした。
 
繰り返しになりますが、もう一度お復習いすると・・・
【配属車両】
153系、155系、159系、165系
【塗色】
湘南色 (153系、155系、159系、165系)
修学旅行色 (155系と159系~昭和50年代前半のほんの一時期で、両数はは極々僅か)
京阪神新快速色 (153系と一部のクハ165~昭和55年以降の一時期だけ)
【細かな点】
冷房車と非冷房車 (153系と165系~155系と159系には冷房車はない)
シールドビーム改造車 (クハ153、クモハ165、クハ164、クハ165~クハ155とクハ159にシールドビーム改造車があったかどうかというのは不明)
2種類のクハ153 (低運転台の0番台と高運転台の500番台)
大垣電車区にはこれだけバラエティ豊かに車両が揃っており、これらを組み合わせることによって、多彩な編成を組むことが出来ます。画像も名古屋寄り先頭がクハ155で非冷房、中間車が153系の冷房車と非冷房155系 (もしくは159系) の組み合わせ、そして豊橋寄りの先頭車が再び冷房付きクハ153という、これだけでももの凄い布陣ですが、これもほんの×3一例で、こうやって例を挙げると、何パターンの編成例があったのでしょう? その組み合わせって大仰ではなく、数百通りあったんじゃないかと錯覚するほど、多岐に渡っていたのが解ります。当初、この記事の中で主な編成例を記載しようと思って作成したのですが、途中で嫌になって止めちゃいました。
 
159系は一足早く昭和55年度には姿を消し、残る153系、155系も昭和57年に117系 「東海ライナー」 が登場すると、置き変わる形で引退し、廃車されることとなります。
 
誰か、この編成記録を含んだ写真集を出版しませんかねぇ~?
 
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
ウィキペディア (国鉄155・159系電車、東海道本線名古屋地区)
 

笹井氏を殺したのはマスコミだっ! の巻

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8月6日 (水曜日) 晴れ
 
69回目の原爆の日。日本人は8月にならないと “平和の尊さ” というものを思い出さないようですが、今、こうしてのんべんだらりと生きていけるのは、過去の戦争によって日本がこれでもかっ! というくらいに “鬼畜米英” にボコボコにされて、何の罪もない人達が犠牲に遭った、その裏返しだと認識しています。同じ人類が血で血を争うという愚かな行為が良いのか悪いのか、答えに迷う時間は無いかと思いますけどね。それでも世界の彼方此方で多くの人類が夢も希望も打ち砕かれて犠牲になっています。 「人類が血で血を争う」 というその誤った認識をあらためさせるために “血で血を争う” のですから、そこから教えないといけないのかもしれませんね。
 
さて先日、理化学研究所の笹井副センター長が自ら命を絶つという悲劇がありました。
様々な経緯があるにせよ、 「何も、死ぬこたぁないじゃん」 というのが率直な感想。
今回の論文に不備があったのなら、もう一回、研究をやり直して、STAP細胞の存在を証明して、くだらない足の引っ張り合いで問題点を指摘した連中に頭を下げさせればいいじゃんというのも率直な感想。しかし、笹井氏は死を選んでしまいました。残された小保方氏はどうすんねん?
 
私的に、今回、笹井氏はマスコミによって殺されたという認識を持っています。
日本のマスコミは失敗や問題などを 「次があるさ」 と擁護せず、徹底的に吊し上げていく。あること無いこと書き立てて、それでご飯を食っているのだから、まさに 「お~こわっ!」 です。
小保方氏同様、徹底的にマークされていたのでしょう。神経もおかしくなりますよ。
 
このニュースを知った時、私は妙な胸騒ぎを感じました。
“最悪な事態” にならなければ良いんですが・・・。
 

鉄道模型ショーに行って来ました ②

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8月4日にフィナーレを迎えた 「第36回鉄道模型ショー」 。皆さんは何回足を運びましたか?
私はとあるルートで招待券をぎょうさんもらったので、初日と翌々日の2回行きました。それこそ、小中学生の頃は、 “口開け” から行かないと気が済まない性格だったので、朝も早よから並び、10時の開店とともに脱兎の如く会場に駆け込んだという記憶がありますが、 “大人” になった今では、夕方の方が来場客も少なく、落ち着いて見られるということに気がつき、今では5時過ぎに会場に足を運んでいます。
 
さて、第2回はカトー (関水金属) です。
今も昔も 「関水金属」 というよりも 「カトー」 の方が馴染んでいるように思います。 “KATO” はあくまでもブランド名。今でも正式な社名は 「株式会社 関水金属」 で、製品を作る側。そして販売元が 「株式会社 カトー」 となります。創業者は加藤さんで、私も一度だけ、それこそ模型ショーの会場でその姿を拝見したことがあります。知っている人は知っているんですが、関水金属の “関水” とは、元々、会社が新宿区道町にあったことに由来します。
トミーでしかNゲージを売っていないと思い込んでいた頃に関水金属の名を知りました。まさかその時は関水が国産Nゲージの草分けだということを知らず、悪く言えば新参者だと思い込んでいました。さらに、 「せきすいきんぞく」 という企業名を聞いて、 「住宅メーカーかいっ!?」 と信じて疑わなかったくらいですからね。
説明するまでもないのですが、明らかな “せきすい違い” ですよね。これも説明するまでもないのですが、住宅メーカーの “せきすい” は 「積水化学」 です。
 
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私が会場に足を運んだ時、カトーのブースで一番人だかりが出来ていたのがこのターンテーブルのコーナー。注目度はピカ一でしたね。
カトーでは以前にもターンテーブルと扇型機関庫を発売していましたが、お座敷レイアウトには不向きで、しかも外国製のものをカトーブランドで発売していたに過ぎませんでした。今回、ユニトラック規格に則ったオールニューのターンテーブルをリリースしたわけですが、これでカトー信者の喉の閊えが取れたかもしれませんね。線路はユニトラックで、ターンテーブルはトミックスという呪縛から解き放たれたのですから。
 
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今、俄に注目を集めているのが 「飯田線シリーズ」 。
昨年から同線で活躍した旧型国電を次々とリリースしているわけですが、購買層も自ずと決まってくるでしょうに、何故、今になって “飯田線” なんでしょう・・?
ただ、私的には、クモニ83の100番台とクモニ13が琴線に触れました。バリエーションが増えることを期待したからです。
クモニ83はオリジナルのクモユニ81に、クモニ13は茶色に塗って 「昭和の首都圏仕様」 というバリエーションを期待したわけですが、カトーはやらないでしょうね。

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ボディだけでしたが、485系 「ひばり」 仕様もお目見えしていました。
クロ481を先頭にした仙台運転所 (仙セン~現在のJR東日本仙台車両センター) 所属の車両をプロトタイプとしています。 「ひばり」 の他に 「ひたち」 「あいづ」 「やまばと」 「やまびこ」 などの列車を再現することが出来ますが、仙台所属なら、電動車の一部を483系にすればもっとリアリティが増したのに・・・。ホントに残念です。
 
今回はここまで。次回こそトミーテック (トミックス) の出番です。
 
 
 
 
 

ファンクラブ存続のためにも・・・

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先月末、 「Mako Mix」 からメールが入りました。
従来の形式ではなく、スマートフォンサイトとなる旨の告知だったわけですが、毎度思うことは 「相変わらず、突拍子もないなぁ・・」 ということ。
ここで誰しもが感じるかと思うのですが、 「スマートフォンを持っていない人はどうすんのさ? “自然解雇” かよっ!?」 と憤りを感じた方も少なくないかと思います。幸い、私はスマホを持っているので何とか解雇にならずに済みましたが (本当はあまりの面倒臭さや使い勝手の悪さに、スマホを止めて従来のガラケーに戻そうかと思っていたんです) 、スマホを持っていなかったがために、 (ファンクラブを) 辞めざるを得なくなった方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
 
様々な事情で形式の変更 (良く言えば 「リニューアル」 、悪く言えば 「改悪」 ) を余儀なくされたわけですが、思いの外、会員数が伸び悩み、赤字続きなのか? それとやはり、スタッフのほぼ全てが真子さんにかかりっきりというわけではないので、通常の業務の他にファンクラブの切り盛りをしなければならないのでしょう。そうすると当然、 「コスト削減」 となってしまい、切れるところから切ってしまおうという図式になります。
 
私は昨年、周囲の声に後押しされる形で事務所様に 「ファンクラブを発足して下さい」 という旨の手紙をエース・オブ・ハーツの小口社長と、真子さんのマネージャー氏に送りました。自分の声が反映されたとは1ミリも思っていませんが、何がともあれ、ファンクラブが発足して心底良かったと思っています。まぁ、ファンクラブ設立の思惑はもっと別なところにありましたけどね。
真子さんサイドは、ファンクラブの存続問題にも触れていたようですが、最悪の事態だけは回避されたので、それはそれで良かったと思わねばなりません。最初の思惑を継続するためにも、ファンクラブの存続は必須事項です。
 
スタッフから送られてきたメールの一文に 「人件的な問題やコスト面などからも運営が難しく・・・」 と記されていましたが、以前に弊愚ブログで、 「我々会員の中から “ボランティアスタッフ” を募り、運営に協力してくれる会員に手伝ってもらえばいい」 と提言したことがありましたが、人件的な問題があるのであれば、そういった方法も (ファンクラブを存続させる) 一つの選択肢だと考えます。スタッフとファンとが一体となって、真子さんを盛り立ててる・・・一石二鳥のような気がしますけどね。
 
これからも 「Mako Mix」 が未来永劫、継続されることを祈念します。個人的な考えですが、そのためなら、どんな協力も惜しまずやりたいと思っています。
 

第244回

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第244回放送 (1982年10月14日)
第1位:待つわ/あみん ④
第2位:すみれ September Love/一風堂 
第3位:6番目のユ・ウ・ウ・ツ/沢田研二 
第4位:少女A/中森明菜 
第5位:けんかをやめて/河合奈保子 
第6位:ダンスはうまく踊れない/高樹澪 
第7位:ホレたぜ!乾杯/近藤真彦 初
第8位:NINJIN娘/田原俊彦 
第9位:哀愁のカサブランカ/郷ひろみ 
第10位:横恋慕/中島みゆき 初
 
スポットライト:布施明 「たまらなくテイスティー」
あみんの強さは変わらず。そして前回初登場だった 「すみれ September Love」 が一気に2位に食い込むなど大躍進を遂げています。一風堂の他のメンバーは全然覚えていないのですが、やはり土屋昌巳の独特のビジュアル性が受けたバンドなのかなって思ったりします。
大躍進と言えば、急に化けたかのように、中森明菜が急上昇しています。初登場時から下位に甘んじていたのですが、じんわりじんわり人気が高まっていたという印象を持ちます。この後、もっと化けるんですけどね。
「ハイティーン・ブギ」 はついにベストテン圏外に墜ちましたが、次なる新曲 「ホレたぜ!乾杯」 がその穴を埋めるべく、7位で初登場となります。上手く出来てますね。
もう1曲の初登場は中島みゆき。 「横恋慕」 というタイトルの歌があったのは覚えていますが、どんな曲だったのかな? ただ、この辺りから、 「 “ザ・ベストテン” も出来レースじゃねぇの?」 という声が聞こえ始めてきました。番組的には全然衰えてはいないのですが、例えばみゆきさんみたいなニューミュージック系のアーティストがランクインしても、テレビには全然出ないし、その一方でランキングの重要なファクターであるはがきのリクエストはアイドルが圧倒的に多い。しかも、公明党に対する創価学会じゃありませんが完全なる組織票。 「これで本当の意味のランキングと言えるのか?」 と言われ始めた時期でもあります。番組開始当初の歌番組は、その出演権というのはプロデューサーが握っており、そのプロデューサーのお気に入りの歌手しか出られないという慣わしがあったそうです。その慣わしをブチ壊したのが 「ザ・ベストテン」 だったわけですが、当初の主旨だった 「本当に今、人気のある歌は何?」 というのが段々と変わってきていて、出るのは殆どアイドルばかりで、そこにたまに演歌が入ったり入らなかったり。確かに人気があるからランクインされるわけですが、それもただ単に組織票で固められているとなると、そのランキングも 「本当なの?」 と疑念を抱くようになります。それで郷ひろみが嫌になって 「もう、番組には出ない」 と宣言されちゃったりして。
 
「スポットライト」 は、布施明です。
1979年に 「君は薔薇より美しい」 で番組出演経験がありますが、この 「たまらなくテイスティー」 は、車 (マツダ・カペラ) のCMソングに採用されました。
布施明と言えば、ハリウッド女優のオリヴィア・ハッセーと結婚したことで、度肝を抜かれたという記憶を持った方も少なくないかと思いますが、その後離婚し、莫大な慰謝料と養育費を払ったことでも話題になりました。さらに昨年、 「SHOW ME」 のヒット曲で知られる森川由加里と入籍したことでこれも大きな話題を集めました。年の差16歳。うまらやしい・・・。

嗚呼・・国鉄時代 (192)

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東海道本線の三島-函南間を行く、急行 「東海」 であります。
平成8年の廃止時 (特急に格上げ~373系化) には、ヘッドマークやグリーン車等級帯の復活 (再現) などで大いに盛り上がったのは約20年前の話とはいえ、覚えてらっしゃる方も多いかと思います。私なんか 「165系だけど、いっそのこと前面の塗り分けを153系っぽくしちゃえばいいのに・・」 と思ったものです。
あれからもうすぐ20年が経とうとしているということで、時の流れの早さにあらためて驚いてしまいます。
「東海」 は東海道本線で最後まで残った電車急行の一つであると同時に、廃止までグリーン車が連結されていたという点でも、東海道における “名門列車” の名に恥じないフィナーレだったと思うのは私だけではないかと思います。
 
「東海」 の歴史を語る上で避けて通れないのが80系電車と153系電車の存在。
昭和30年に客車を使った東京-名古屋間の準急でスタートした 「東海」 ですが、昭和32年に電車化された時から二等車 (→グリーン車) が2両連結されていました。全金属製の300番台によって電車化された 「東海」 はたちまち人気列車になるのですが、時代は既にその年にデビューしたモハ90系 (→101系) の基本設計を踏襲した次世代電車の開発・製造に傾いており、80系に代わる準急用電車モハ91系電車 (→153系) が昭和33年に登場し、準急 「東海」 「比叡」 に早速投入されました。というわけで、80系の 「東海」 は1年持ったか持たなかったかという儚い歴史でした。80系は 「湘南形電車」 と呼ばれましたが、153系に関しては当初、 「新湘南形」 と呼ばれる予定だったとか。しかし、実際には 「東海形」 と呼ばれており、153系と 「東海」 の関係の濃さがよく解ります。因みに20系客車は 「あさかぜ形」 、151系電車は 「こだま形」 、キハ81系気動車は 「はつかり形」 、キハ82系気動車は 「白鳥形」 、157系電車は 「日光形」 、581系電車は 「月光形」 と、それぞれ異名がありました。
 
昭和33年以来、長きに渡って153系が使用された 「東海」 ですが、老朽化が深刻さを増していたため、昭和57年11月から165系に置き変わり、平成元年には受け持ちが大垣電車区 (名カキ~現在のJR東海大垣車両区) から静岡運転所 (静シス~現在のJR東海静岡車両区) に移管しました。
 
話を153系を使ってた頃に戻しますが、昭和43年から運行を開始した東京-御殿場間の急行 「ごてんば」 を併結しまして、こちらは165系を使用したため、東京-国府津間では 「東海」 「ごてんば」 の15両編成となりました。それで今更ながら知ったのですが、153系と165系は互換性があって、混結が可能なんですね。153系と165系は外面はよく似ていますが、搭載モーターや制御器の違い、勾配用抑速ブレーキの有無などから、互換性が無く、混結は出来ないと思っていました。ただ、実際には京阪神の新快速の一部で153系と165系の混結が存在しましたし (但し、165系はクハのみで電動車は全車153系) 、山陽本線でも153系の基本編成にクモハ+モハという165系のユニットを繋げていたこともしばしばありましたので、普通に有り得たんだなと。但し、165系と153系が混結した場合は、165系のアイデンティティの一つでもある抑速発電ブレーキは使えないことになりますが。
 
この 「ごてんば」 は、運行開始当初は165系の3両編成だったのですが、昭和56年に167系に置き変わりました。167系はクモハが存在しないため、4両が基幹編成となります。その結果、 「ごてんば」 も4両編成となりまして、さらに 「東海」 も12両編成は崩れなかったため、東京-国府津間は何と16両編成になったのです。私の記憶が確かならば、この 「東海」 「ごてんば」 の16両編成は、国鉄の電車急行の中では最も長い編成だったんじゃないでしょうか。私も子供心に 「16両 (編成) ってすげぇなぁ。新幹線並みじゃんっ!」 って妙に興奮したのを覚えています。
「ごてんば」 は昭和60年3月改正で廃止されまして、以降は 「東海」 の単独運用となるのですが、画像はその直後、 「ごてんば」 編成が削られて身軽になった頃の撮影と思われます (もっとも、 「東海」 が身重なのは 「ごてんば」 をつないでいる東京-国府津間であって、国府津-静岡間は普通に身軽なんですけどね) 。しかし、身軽になったとはいえ、それでも12両編成は崩れなかったんですね。特急にしても急行にしても、優等列車はやっぱり10両以上の長い編成がお似合いです。それも冒頭でお伝えしたように、グリーン車2両付きですからね。これは特筆すべき事かと思います。
 
新幹線開業後も “庶民の足” として君臨していた急行も特急格上げや列車そのものの廃止などによって徐々に姿を消していきました。民営化の段階で残されたのは 「東海」 「富士川」 、そして岐阜-大阪間で東海道本線を走る高山本線の急行 「たかやま」 だけとなっていたのですが、 「東海」 と 「富士川」 は平成17年に特急に格上げされて、使用車両も165系から373系に置き変わりました。373系はこの他に飯田線を走る特急 「伊那路」 や “大垣夜行” が格上げされた快速 「ムーンライトながら」 にも使用されるようになりました。なお、 「富士川」 は、特急格上げを機に、平仮名の 「ふじかわ」 に改められています。
さて、 「東海」 「富士川」 が特急格上げされた平成17年3月改正の段階で、東海道本線を走る昼行急行列車は大阪-高山間を結ぶ 「たかやま」 だけとなりました。電車急行ではありませんが、アコモが改善されて、外板塗色が変更されていたものの、当時のキハ58系使用急行としては殆ど唯一のグリーン車連結とあって、 「東海」 同様、こちらも大きな盛り上がりを見せていたのですが、平成11年12月に廃止されて、ここに東海道本線の昼行急行列車は全て消えたことになります。
 
一方、 「東海」 ですが、 「ふじかわ」 とともに東海道本線三島-静岡間において、久々に昼行特急列車が復活したことになります (東京-熱海・三島間では 「あまぎ」 「踊り子」 が従来から運転されていたため) 。それこそ昭和39年10月の東海道新幹線開業時まで遡るんじゃないでしょうか。しかし、現実はそう甘くなく、東京-静岡間はやはり新幹線がメインで、新幹線が停まらない駅をカバーするとは言っても、特急列車が停まる駅には新幹線も普通に停まりますし、高速バスも普及していることから、利用者は減少の一途を辿り、 「東海」 はついに平成19年3月に廃止になってしまいました。
 
あらためて画像を眺めますと、ホントに気持ちの良いくらい長い編成です。153系で運転されてた頃は、貫通編成の12両だったのですが (←静岡 Tc153-M'152-M153-Ts165-Ts165-M'152-M153-T153-T153-M'152-M153-Tc153 東京→) 、165系置き換え時には8+4の12両編成になりました (←静岡 Tc165-M'164-M165-Ts165-Ts165-M'164-M165-Tc165+Tc165-M'164-M165-Tc165 東京→) 。これに 「ごてんば」 の165系 (56.10改正からは167系) が組み込まれるんですから、今の2~4両で 「特急でございっ!」 と威張って闊歩している列車からすれば、まさに神話の世界かもしれませんね。さらに特急は特急で、急行は急行で、普通は普通で・・といった感じで、国鉄の車両はそれぞれ “適材適所” というのがありました。今のように、普通用の車両を特急に使うというのは国鉄全盛期には有り得ない話だったわけですから (国鉄末期からその慣わしが崩れた) 、この165系 「東海」 は、 「急行形が最も急行形らしく、165系が最も165系らしかった」 最後の時代だったのかもしれませんね。
 
【画像提供】
岩堀春夫先生
【参考文献】
鉄道ピクトリアルNo.867 (2012年10月号) 「特集:165・169系電車」 (電気車研究会社 刊)
キャンブックス 「国鉄急行電車物語」 (JTBパブリッシング社 刊)
ウィキペディア ( 「ムーンライトながら」 「東海 (列車) 」 「ふじかわ (列車) 」 「ひだ (列車) 」

麺プレッション582~七志

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来週に迫った 「真子ライブ&ついでの鉄旅」 に備えて渋谷で色々と買い物をしました。
台風の影響で時折、雨足が酷くなる劣悪な気象環境の中、腹も減って昼飯を食うために彷徨いました。ここんところ、ラーメン食ってないなとばかりに、いつもは素通りしてしまう道玄坂の店に寄ってみました。
さて、今日は何処に行ったのでしょう・・・。
行った店・・・・・・とんこつらーめん 七志渋谷道玄坂店
場所・・・・・・・・・渋谷区道玄坂2丁目 (道玄坂沿い)
食ったもの・・・・ 七志味玉らーめん (チャーシュー、のりをトッピング)
          ご飯を付けて ¥1,359-
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スープ・・・○
横浜が発祥の 「七志」 ですが、 「麺プレ」 としては7年ぶりになります。
その7年前は高田馬場店だったんですが、今は撤退しているようです (後から分かったのですが、高田馬場店は今から3年前に撤退したとのこと) 。
かつては、東京にも上記の高田馬場の他、池袋、上野、錦糸町、歌舞伎町にも出店してたようなんですが、今は渋谷と町田の2店舗しかありません。あとは全部神奈川県にあります。
さて、青葉台にある 「七志らーめん」 が 「七志」 の本店だったと記憶していますが、何故か渋谷道玄坂店に “本店” と掲げられています。まぁ、別にそんなことはどうでもいいんですが・・・。
7年前に食った時も基幹メニューである 「七志らーめん」 でした。当初はこってり系の 「こくまろらーめん」 にしようかなと考えていたのですが、いつも突発的に入るので、完全なるリサーチ不足は否めません。完全に 「 「七志」 に行くぞ」 と目的がハッキリとすれば、過去の 「麺プレ」 やデータも見直すのにね・・。
待つこと数分、オーダーしたラーメンが運ばれてきました。7年前は画像無しだったので、初お目見えということになります。

始めの一口ぃ~

7年前の 「麺プレ」 を読み返してみると、 「豚骨 (スープ) だけど、あっさりしている。豚骨ならもっとパンチを効かせろよ」 と記述してあります。今回も予備評価では 「あと2~3ミリほど、スープにパンチがあれば・・」 と評価していましたので、結果的には7年前と同じ味だということが解ります。 「七志らーめん」 は、胡麻とニンニクを効かせているのがポイントなんですが (それも7年前に同じことを書いてありました) 、あまりそれは感じなかったな・・。やはり豚骨にしては味がイマイチだったことが先に感じてしまい、胡麻とニンニクの風味は言われれば 「あぁ・・そうかなぁ・・」 的にしか感じられませんでした。
 
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麺・・・◎
豚骨にしては珍しい、中太麺を採用しています。木箱には 「七志」 と書かれてありますので、自社で工場を持ち (旧荏原店が仕込み専門になっている) 、そこで麺を作っているようです。
太さも丁度良い感じですし、茹で加減も申し分ありません。
7年前同様、その意外性に驚きました。
 
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チャーシュー・・・○
チャーシューに使う肉は、国産の 「SPF豚」 を使用しているとのこと。これに創業以来、継ぎ足し使っている秘伝のタレを潜らせているのだとか。鰻の蒲焼きみたいだね。
7年前は 「かってぇ~っ!!」 と悲鳴を上げていたようですが、今回はそんなに硬く感じませんでした。かといって、 「麺プレ」 基準の柔らかさまでは到達していませんが。
煮崩れもしなかったので、それはそれでキチンと作り込まれているんだなというのが率直な感想です。
 
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玉子・・・△
白身の弾力感は多少ありましたが、画像を見てもお判りのように、熟し過ぎ。そして味が全然無い。
「味玉」 と銘打っているのに、全くの無味無臭とはどういう料簡じゃいっ!? これが家系だったら、 “伝家の宝刀” 注入は避けられない情勢でしたが、 「七志」 にはその “伝家の宝刀 (辛子味噌) ” が無いので、代わりに “激辛” と銘打っているラー油 (本来は、餃子に使うものでしょうね) を二、三滴黄身に垂らしてみました。そうしたら、余計に味が酷くなってしまい、この “△” 評価の半分は私の責任でしょうね・・・。
 
総合評価:B1
 
結果的には高田馬場と同じ評価になってしまいましたが、スープやチャーシュー、玉子の評価は高田馬場と大きく異なります。あとね、海苔もダメだったな。 「麺プレ」 では評価の対象にはなっていないものの、海苔だって重要な評価材料の一つです。 「七志」 の海苔は、スープに浸すとすぐにドロドロになってしまいます。ヤワいんですよ。同じ海苔でも溶けない海苔はいつまで浸してても溶けないですから。そこを掬って、ご飯に巻き付けて食う。これも 「麺プレ」 においてはラーメン全体の善し悪しを決める重要なファクター。
もし、次回行く機会があったとすれば、今度こそ 「こくまろらーめん」 を食ってみよう・・・。
 
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