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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (291)

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ここは、南武線の中原電車区でしょうか。 「川崎」 という行く先が南武線であることを物語っているわけですが、ちょうど新旧世代交代が推し進められている過渡期に撮影したものと思われます。73系と101系という通勤電車の二大レジェンドが仲良く屯ってますが、101系がちょっとヘン。前面の左右端に何やら怪しい枠が据えられていますが、実はこれは雨樋。となれば、車体前面に据えられた雨樋から、この車両が何なのかというのは、アラフォー、アラフィフの国鉄フリークの方ならお判りですよね。そう、この101系、何を隠そう、試作車900番台だったりします。旧姓モハ90系。国鉄における新性能電車の草分けで、この電車の開発無くして 「こだま形」 モハ20系も、 「東海形」 モハ91系も、そして新幹線も生まれなかったであろうという、記念樹的な車両であります。

戦後の混乱も落ち着き、普段の生活に戻りつつあった昭和20年代後半、東京や大阪の通勤事情は逼迫していました。通勤地獄というのは今も昔も変わりない光景でありますが、車両事情が今とは隔世の感があり、画像右のモハ73系が獅子奮迅の活躍をしていた頃であります。因みにその頃の山手線は73系もあるにはありましたが、戦災を免れた戦前製17m級のモハ30系を後生大事に使っていて、20m級の73系とでは明らかに輸送能力が違いすぎまして、早急の取り替えが求められていました。また、17m級だけでなく、20m3扉車のモハ60系もあり、17m級と20m級、4扉と3扉の混成で運行されており、 「これで日本第一級の通勤路線?」 と疑いたくなるような車両構成でした。その後の103系や205系、E231系500番台など、新形電車は先ず山手線に投入されていく時代から考えたら、実に長閑な時代だったと言えるでしょう。しかし、高度経済成長の兆しが見え隠れしていた昭和20年代後半から30年代前半にかけては、そんな悠長なことは言ってられない、待った無しの状況にまで追い込まれていました。

一方、私鉄に目を向けると、カルダン駆動や両開き扉などを用いた次世代の新形車両がどんどんと開発されていって、実戦投入されていきました。京王帝都電鉄 (現、京王電鉄) の2700系電車や近畿日本鉄道 (近鉄) の2250系電車、京阪電気鉄道の1800形電車、東京急行電鉄 (東急) の5000形電車、帝都高速度交通営団 (→営団地下鉄、現在の東京メトロ) の300形電車などがその代表格だったりしますが、国鉄でもそういった新機軸を用いた新形電車を登場させるべく、開発が進められていました。ただ、国鉄は創業以来、新機軸を盛り込んだ新形車両の開発に関しては慎重居士を貫いていました。国の機関であり、限られたお金でやりくりしなければならないという台所事情もあったことから、自由に使えるお金は無かったと言えるでしょう。だからそういった新機軸に関しても、他が採用してその経緯を見つめながら、機能が安定したのを見計らって自社の車両にフィードバックする傾向が強かったのです。カルダン駆動、両開き、MM’ユニット、ステンレス車体、サイリスタ・チョッパ制御、VVVFインバータ制御などは国鉄が先鞭を付けたものではなく、私鉄が採用して様子を見てから国鉄も 「じゃあ、使ってみようか」 と実用化したものの代表例です。

昭和30年代に入って、次世代の技術がある程度確立したのを見た国鉄はいよいよ、自ら新形車両の開発に着手することになります。
駆動方式は高性能電車の必須アイテムと言うべき、カルダン駆動を採用しますが、数あるカルダン駆動の方式の中から、中空軸並行カルダンを採用することになりました。
車体は東急5000系や国鉄10系客車で脚光を浴びた全金属製の軽量車体を用いることにしました。電車ではモハ72の920番台で試用されていましたが、モハ90系ではそれを全面的に採用したことになります。
従来の国電は、走行に必要な装置を一つの車両に組み込む 「1M方式」 を採用していましたが、機器類の進化により、それを全部1つの車両に組み込むと車両の重量増につながるので、二つの車両に分散して組み込む方式 (MM’方式、またはMM’ユニット) が採用されました。MM’方式を採用することによって、高速域からの発電ブレーキ使用を効率化して高加減速を得る利点があり、後々の国電は基本的にはMM’方式を採用することになります。また、加速性能を良くするため、全電動車方式を採用することを前提に開発が進められました。
営団300形が先鞭を付けた両開き扉を国電で初めて採用したのもモハ90系です。戦前にサハ75で試験的に採用していましたが、膨大な通勤通学客を捌くために、両開き扉は必要不可欠なアイテムだったのです。
電車の心臓とも言える主電動機 (モーター) は、モハ90のために開発されたといっても過言ではない、100kwのMT46が採用されました。モハ72やクモハ73に搭載されているMT40よりも小型軽量なのが特徴です。MT46はモハ20系 (→151系) やモハ91系 (→153系) などにも採用されますが、あくまでも平坦線用で、山岳線を走る車両には向かないことが後々に発覚し、山岳線用の車両には別途、出力をアップしたMT54が開発されたのは有名な話ですよね。
電車運転であることから、蒸気機関車のような煤煙に悩まされる必要がないので、モハ80系が先鞭を付けた外板塗色を通勤電車にも採用することになり、  「オレンジバーミリオン」 が生み出されることになるのですが、モハ90系を開発した当時の国鉄が誇るカリスマエンジニア、星晃氏の奥様が着ていたセーターの生地色がヒントになったというのはあまりにも有名な話です。

こうして昭和32年に10両編成で登場したモハ90系は、三鷹電車区 (東ミツ~現在のJR東日本三鷹車両センター) に配置され、首都圏の通勤線でも屈指の混雑路線である中央線急行 (現在の快速) に投入されて、試験を兼ねた営業運転を開始しましたが・・・。思わぬ落とし穴が待っていたのです。

全電動車方式を採用することは、それだけ車両制作費も嵩むことになるばかりでなく、電力消費も計算に入れないといけません。ジャンルは全く異なりますが、例えば朝、皆さんが起きて蛍光灯を付けて、テレビのスイッチをオンにして・・と、生活のスタートを切りますよね。この他に冷蔵庫、ご飯を炊いていたら炊飯器、パンだったらトースター、冷めてしまったおかずを温め直すのにレンジ、夏場だったらクーラー、冬場だったら暖房を付けますよね。それを一気にやったらどうなります? 当然のことながら、ブレーカーが落ちちゃいますよね。電車でも同じような現象が起こったのです。いわゆる 「走らせてみたら変電所が・・」現象っていうやつです。試作車1編成でこれですから、中央線の電車を全部モハ90系に交換したらどうなるかというのは、想像に難しくありませんよね。電車は制御カム軸の自動進段を行う電流の値 (限流値) と列車の運転密度によって、変電所負荷電流の大きさは決められますが、旧来のモハ72系が1M方式で限流値は210Aだったのに対し、モハ90系はMM’方式で460Aと倍以上の数字になります。従来が1M、モハ90が2両1ユニットですので、限流値も倍になるのは計算しなくても判ろうものなのに、これを編成として組んだ場合、どうなるかということまでは計算していなかったのでしょうか? さらに、前述のように中央線の電車を全部取り替えたら・・。変電所は幾つあっても足りないですよね。

それを考慮して、実際の営業運転では8両に抑えての運転となったのですが、それでも変電所の容量オーバーは避けられず、結果、付随車を組み込むことになりました。ただ、モハ90系の場合、全電動車方式を前提として製作されていますので、付随車についても将来的に電動車にすることを考慮しての設計としました。当時のサハ98、後のサハ100になります。パンタ台が用意されているのが特徴です。当初は8M2Tで運転されていましたが、それでも変わらなく、かといって変電所を増設するにしても、土地の問題やら何やらでそれも得策とは言えず、最終的には6M4Tとすることにして、全電動車方式は断念せざるを得なくなり、サハ100や後に登場したクハ100はそのまま付随車として使用することになりました。モハ90系は昭和34年の形式称号制度改正によって、101系となり、試作車は900番台となりました。

900番台は新製投入後、量産化改造を実施されつつ中央線快速を離れることはありませんでしたが、昭和47年に転機が訪れます。南武線の新性能化着手に合わせて、昭和47年に中央・総武緩行線の車両を転配したことから始まります。これは総武本線の複々線化完成に伴って、同線の車両受給適正化によって捻出した車両を南武線に転属させるというフローによるものですが、総武線用の車両を転配したことがきっかけ (?) で、南武線のラインカラーは黄色になりました。そして南武線への転属第一陣の中には、総武線では走ったことがない900番台も含まれていまして、おそらく転入当初は朱色で、入場時に黄色に塗り替えられたのでしょう。
車両の置き換えが本格化するのは、稲城長沼駅以遠のホームが6両化になる昭和52年からになりまして、この転配では総武線から捻出した車両ではなく、三鷹電車区の車両や池袋電車区の赤羽線用の車両を捻出して転配に充てました。またまた赤羽線が出てきましたねぇ~。三鷹区の車両は当初は朱色 (画像右のモハ72系の隣にも朱色の101系が見えますよね) で、しばらくは朱色と黄色の混色が続きました。
この転配フローに関しては、三鷹電車区に配置させるため、必然的に分割・併合を伴う車両が必要になります。そこで、目を付けたのが京浜東北線の車両。具体的には新車の103系を京浜東北線に配置して、同線の下十条電車区や蒲田電車区に配置されていた3+7の103系を冷房改造の上、三鷹に転出させました。そして、三鷹の101系を南武線に転出させるというフローです。従来、中央線快速の103系は、基本的に10両貫通編成だったのですが、ここで初めてクモハ入りの車両が転配されたことになります。
昭和55年には、中央線快速で活躍していた初期製造の101系取り換え用として、他線区から冷房付きの103系が投入され、玉突きで冷房改造された101系を中原に転属させて、南武線初の冷房車が登場しました。101系の冷房改造車は中央線快速に集中配置されていましたが、撤退後は南武線と片町線に分散、首都圏では南武線でしか見られませんでした。
南武線はJR最後の101系運行線区として一躍脚光を浴び、2両編成の電車が尻手-浜川崎間を往復してましたが、2003年に最後の2両が引退して、JR線上から姿を消しました。そして、101系自体も秩父鉄道に譲渡されて、晩年は国鉄カラーを纏って注目を集めていた1000系が平成26年をもって引退して、モハ90系登場時から数えて57年間の歴史に幕を閉じました。

試作車の登場当時は、下記の編成スタイルだったそうです。

 ↑東京
↑モハ90503 (→クモハ101-902)
  モハ90004 (→モハ100-903)
  モハ90005 (→モハ101-903)
↓モハ90502 (→クモハ100-902)
↑モハ90501 (→クモハ101-901)
  モハ90000 (→モハ100-901) 
  モハ90001 (→モハ101-901)
  モハ90002 (→モハ100-902)
  モハ90003 (→モハ101-902)
↓モハ90500 (→クモハ100-901)
 ↓浅川 (現、高尾)



このうち、南武線にはクモハ100-901-モハ101-901-モハ100-901-クモハ101-901の4両が転属してきましたが、皮肉なことに、南武線でオールM編成が実現したことになります。もっとも、4両ではそんなに電力消費が嵩まないのでしょうし、6両化に際してはサハも組み込まれたのでしょうけど、画像はおそらくクモハ101-901ではないかと思われます。クモハ100-901の場合、ジャンパ栓押さえが向かって左側 (1位側) に取り付けられているのと、方向幕と運行表示器の仕様が原型 (角の処理がほぼ直角) であるため、画像はクモハ101-901であると断定出来ます。73系と共存しているということは、73系にとっても101系900番台にとっても最晩年の頃でしょうね。

試作車の編成は、昭和54年5月に引退して廃車されました。また、中央線快速に残った6両の900番台も同年7月までに廃車されて、登場から22年で国鉄における新性能電車の嚆矢となったモハ90系はその生涯を閉じたのですが、クモハ101-902だけは幸運にも解体を免れ、生まれ故郷である国鉄大井工場 (現在のJR東日本東京総合車両センター) に保存展示されていました。そして2007年に開館した鉄道博物館で展示されることになって、現在でもその姿を見ることが出来ます。なお、東京総合車両センターの保存車両は、901系 (元、209系900番台) が後任を務めています。

今の南武線は205系からE233系への世代交代が進んでおりまして、置き換えが完了するのも時間の問題とされています。画像も世代交代だったりしますが、こちらは事実上の共倒れになります。でも、長閑な田園風景を走るローカル線というイメージを脱却したのは他でもない、この73系と101系の存在が大きかったのを忘れてはなりません。

【画像提供】
は様
【参考文献】
鉄道ピクトリアル No.724、874 (いずれも電気車研究会社 刊)
鉄道ファン No.281、540、541 (いずれも交友社 刊)
国鉄車輌誕生秘話 (ネコ・パブリッシング社 刊)
ウィキペディア (中原電車区、鉄道博物館、秩父鉄道1000系)









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