川崎駅を発車する横須賀線の113系電車です。
横須賀線の電車が川崎駅を通っていたことを覚えている方って、どれくらいいらっしゃるんですかねぇ~?
今でこそ、品川で東海道線と大きく分かれて、新幹線に沿って大田区の北部を西進し、多摩川を渡って神奈川県に入り、ここで新幹線と分かれて武蔵小杉や新川崎を通り、鶴見の手前で再び東海道線と合流するというルートが世間的には知られていますが、昭和55年9月30日までは東京-大船間においては東海道線と横須賀線は同じ線路を共用していました。因みに、品川-鶴見間は 「品鶴線」 と呼ばれた貨物専用線であったというのはあまりにも有名な話で、貨物線を旅客に転用した最初のスタディケースとして知られています。
「SM分離 (決して “サド” と “マゾ” のSMではないので悪しからず) 」 は国鉄の悲願でもありまして、昭和40年代から、横須賀線と東海道線を分離する構想はありました。年々増加する利用客に東海道線の東京-小田原間はパンク寸前でした。昭和30年代は優等列車が次々と増発されて、ひっきりなしに行き交う列車にパンクしそうになって新幹線が建設されたというエピソードがありましたが、新幹線が開通したらしたで、今度は通勤輸送客の増加によって再びパンクの危機に晒されたというわけなんですが、今度は新線の建設というわけにはいきません。
「SM分離」 は次のプロセスで計画が進められました。
① 東京-小田原間に貨物の別線を建設し、鶴見-小田原間を複々線とする。② 当初は東京までの計画であった総武本線の地下ルートを品川まで延伸して、将来的には横須賀線と総武本線を相互直通運転させる。③ 品川-鶴見間の 「品鶴線」 を軌道強化し、旅客列車を運転出来るようにする。
「SM分離」 を実施するにあたってまず、旅客列車と貨物列車を分離することから始められました。
当時の東海道線貨物列車は、前述のように品鶴線として汐留-鶴見間は別線が完成してそっちを走っていましたが、鶴見から先は旅客線と共用していました。ご存じのように、東海道本線は日本の大動脈。旅客列車に交じって貨物列車も頻繁に運行されていました。そこで、貨物の専用線を別途建設して、貨物列車を逃がさないと、東海道・横須賀の分離は為し得ません。計画が発表されたのは昭和41年のことですが、沿線住民の強硬な反対運動によって、なかなか実現しませんでした。それと並行して、田町の手前から旅客線と分かれ、東京港沿いに線路を敷き、羽田沖はトンネルで通過、塩浜操車場 (現、川崎貨物駅) の手前で再び地上に顔を出すというルート (通称:大汐線) の建設も行われ、東京貨物ターミナルを含む大汐線は昭和48年に開通、以前より開通していた塩浜操-鶴見間 (通称:塩鶴線) と合わせて、基本的に東海道の貨物列車は品鶴線経由を除き、この大汐線・塩鶴線経由となります。これで東京-鶴見間では、旅客と貨物の分離が実現しました。
それから、五ヶ年計画の一環として、御茶ノ水が起点だった総武本線を東京起点とし、両国-東京間は地下トンネルで通すことになりました。そして将来的な展望として、総武本線と横須賀線の相互直通運転を行うこととして、この計画に見合った専用車両が製造されることになります。これが113系の地下乗り入れバージョン、1000番台であり、昭和44年に登場します。
旅客と貨物を分離するという名目で、第二次世界大戦前に既に鶴見-平塚間の複々線は開業していましたが、この複々線を鶴見-大船間において横須賀線列車の線路とすることになっていました。しかし貨物新線の建設は一向に進みません。計画段階では、地上に線路を敷設しようとしていたのでしょうか、表向きは 「生活環境の悪化」 となっていますけど、これがもし、旅客線だったら、住民の反対運動もそれほど強硬なものではなかった筈です。しかし、通る列車は住民が乗れない貨物列車。そんな列車しか走らない線路は必要ないというのが本当の (反対) 理由だったんでしょうね。新幹線にも無視されていますし。
そこで国鉄は、計画区間の殆どをトンネルで隠すことにして、騒音を限りなく抑えるなど最大限の配慮をすることで半ば強制的に計画が推し進められ、昭和54年10月に横浜羽沢貨物駅を含む鶴見-戸塚間の新線及び、平塚-小田原間の複々線化が完成し、ここに東京-小田原間の旅客・貨物分離が完全に実現しました。
一方、総武本線の地下ルートは昭和47年に完成、 「さざなみ」 「わかしお」 といった総武本線初の特急列車が走り始めます。そしてこの時に新設された快速用に113系も投入されますが、投入されたのは地下乗り入れ対策を強化した増備車 (通称:1000’番台) でした。そして、東京から先、品川までの区間も建設が始まり、昭和51年10月に完成し、総武線快速が品川まで乗り入れるようになりました。
ここまで来ると、 「SM分離」 は最終段階に入り、あとは品川-大船間をどうするかという一点に絞られます。既に、品鶴線の旅客転用が決まっており、横須賀線と総武線はここを通ることになっていました。ただ、本来貨物専用である品鶴線は、軌道が弱いため、そのまま旅客線に転用することが出来ないので、軌道強化工事が本格的に始まりました。そして新鶴見操車場に隣接して、新たな駅も設置されることになり、工事も始まりました。こうして昭和55年10月1日に長年の懸案であり、悲願でもあった東海道線と横須賀線の分離が実現、横須賀線は川崎駅を通らなくなりました。同時に東戸塚駅も開業しています。
横須賀線が川崎経由だった頃、川崎駅に停まるのは横須賀線の列車だけで、いわゆる 「湘南電車」 は川崎駅を通過していました。55.10以降、湘南電車が川崎に停まるようになりましたが、55.10以前は、川崎の他、戸塚も通過扱いで、横浜-大船間はノンストップで運転されていました。つまり、湘南電車が快速的な役割で東京、新橋、品川、横浜、大船しか停まらないのに対し、横須賀線の列車は各駅停車的な役割という割り振りで、新橋、品川、川崎、横浜、保土ヶ谷、戸塚に停車していました。
また、使用車両も横須賀線単独運行時代は、0番台 (1000番台登場後は極々少数派でしたが) 、1000番台前期形、1000番台後期形とバラエティに富んでいましたが、総武線との直通運転が本決まりになると、集中的に1000番台の後期形を投入、余剰となった1000番台の前期形は房総各線に転じたり、あるいは湘南色に塗り替えられて湘南電車として活躍したりと、地下での活躍の機会は最後まで与えられませんでした。
画像は、昭和50年代中盤に撮影されたものかと思いますが、あれから34年、川崎駅周辺は見事なまでに変化しました。
【画像提供】
ミ様
【参考文献】
鉄道ピクトリアル No.872 「特集:東海道本線 Ⅰ」 (電気車研究会社 刊)
国鉄監修・交通公社の時刻表 昭和53年8月号 (日本交通公社 刊)
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