2018年は、小田急電鉄にとって大変革の年になりました。
まずは、予てより工事が進められていた代々木上原-登戸間の複々線化工事が完成して、それに伴って3月17日に白紙ダイヤ大改正が実施されました。具体的な内容は、鉄道各雑誌に事細かく記載されているので、そちらを参照していただくとして、そんな中、ひっそりと消えていった列車がありました。長年、東京と御殿場を結んでいた 「あさぎり」 が、何を血迷ったか、 「ふじさん」 という列車名に変わってしまい、嘆いた方も少なくないのではと思いますが、無理して変える必要なんてなかったんじゃないかって気がするのは私だけでしょうか? で、今回は、ひっそりと消えてしまった名列車 「あさぎり」 と、その 「あさぎり」 に長年使用された、小田急の “レジェンド” である3000形特急用電車にスポットを当ててみたいと思います。
「Super Express」 3000形は、小田急の歴史を語る上で絶対に外せない、名車中の名車です。
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この電車の成功がなければ、新幹線も誕生しなかったのでは、と言われるほど、3000形のもたらした功績は多大なものがあります。
3000形を語る際、 「小田急ロマンスカー」 は外すことが出来ないのですが、小田急ロマンスカーの歴史は、3000形登場以前から遡ることが出来ます。
終戦間もない1949年頃、新宿に存在した映画館に男女がペアで座れるシートがありました。それをこぞって 「ロマンスシート」 と呼んだのですが、同じ時期に運転を開始した小田急の特急に2人掛けの対面座席を設置し、そのシートが設置されていることから、 「ロマンスカー」 と命名したのが起源とされています。因みに、 「ロマンスカー」 は固有名詞且つ事実上の和製英語になり、小田急の登録商標でもあります。
小田急は1927年に新宿-小田原間を一気に開業させましたが、その当時から (運転開始は1935年から) 箱根の温泉地に向かう優等列車を運転していました。ただ、毎日運転ではなくて週末のみの運転で、クロスシートやトイレが付いた専用車両を充当していました。それが 「ロマンスカー」 の源流と言えるでしょうね。21世紀の昨今、世は不倫ブームですが、この当時も実は影に隠れてこそこそと男女が箱根に繰り出していたらしく、裏では 「お忍び列車」 と呼ばれていたそうです。
1941年に太平洋戦争が勃発し、時間が経つにつれて戦局が悪化すると、温泉旅行どころではなくなってしまい、週末温泉急行は1942年に事実上廃止となってしまいます。小田急も同年5月に京王帝都電鉄、京浜急行電鉄と共に東京急行電鉄に合併されてしまいます (いわゆる 「大東急」 ) 。
1945年に終戦を迎え、新たな時代に突入しますが、大東急は1948年に解体され、京王、小田急、東急、そして京浜急行はそれぞれ分離して独立することになります。しかし、世の中はまだ 「温泉でゆったり」 という気分には浸れず、生きていくのに精一杯だった時代です。ただ、小田急は東急から分離したにもかかわらず、厳しい経営状況が続いていたのは確かなようで、そこで目を付けたのが箱根でした。経営再建の一環として、1948年6月に新宿と小田原をノンストップで結ぶ特急列車の運転が計画され、10月に運行を開始します。当初は難儀したものの、次第に評判がクチコミで広がり、件の1949年を迎えます。
それまでは、既存の1600形電車の中から状態の良い車両を選んで、特急専用車に仕立て上げましたが、世の中が少しずつ豊かになりつつあると、 「特急専用車両の車両を」 という要望が高まり、登場したのが1900形 (1910形) です。ただ、100%特急専用ではなくて、通勤にも使うような設計になりまして、2扉セミクロスシートを採用しました。
1910形には、車内に供食スペースが設けられ、 「走る喫茶室」 と呼ばれますが、この設備は21世紀の今でもロマンスカーに設置されており、小田急ロマンスカーの伝統になっています。なお、1950年からは箱根登山鉄道の箱根湯本駅までの直通運転も実施されています。
小田急ではありませんが、この頃、日本国有鉄道の80系電車や近畿日本鉄道の2200形電車など、最新のテクノロジーを駆使した新形電車が続々と登場し、 「これからは電車の時代」 と声高にアピールする時代へと突入します。冒頭の 「新幹線の成功・・・」 ではありませんが、小田急3000形誕生の綺譚には、国鉄80系や近鉄2200系、時代は違いますが、帝都高速度交通営団 (営団地下鉄→東京メトロ) の300形電車や東京急行電鉄5000形電車など、新たなムーヴメントとなる新形電車が現れて初めて為し得ることだと思っています。
小田急の新形特急用車両の開発は、1954年頃から始められていました。
当時の国鉄鉄道技術研究所 (→JR総研) との共同開発で、随所にそれまで採用したことがない新たな新機軸を盛り込んだ意欲作となりました。それが1957年に具現化し、登場したのが3000形になります。
外観で目を引くのが流線型の先頭車両。
どことなく・・ではありますが、新幹線の車両にも似てなくもないような気がします。新幹線の試作車両である1000形も、量産車両になる0系も3000形のインスピレーションを多分に受けているものと思われます。
車体は航空機の技術も採り入れて、頭のてっぺんからつま先に至るまで、徹底的な軽量化を図りました。
塗装の錯覚と申しましょうか、ステンレスやアルミを使っているように見えますが、一般的な鋼板を使用しています。しかし、始めに軽量化ありきの設計だったことから、張殻構造としました。外板は既存の車両よりも半分に近い1.2mm厚の耐蝕鋼板を使用し、バックリング防止のために125mm間隔でリブを入れて強度を保ちました。なお、計画段階では本当に軽合金を採用しようかという声もありましたが、車両メーカー側の都合とコスト的な問題から、一般的な鋼板を使用しています。
先頭部は流線型を用いているというのは、先程も申しましたが、1/1のモックアップを作って風洞実験を何度となく行い、その実験データを基に、あの流麗なデザインが決まりました。画像の前照灯は改造によってああいうスタイルに変更されたもので、登場当初は車体前部の中央部分にシールドビーム2灯が配されました。シールドビームの採用も小田急3000形が最初と伝えられています。
車体を連接構造としたのも大きな特徴ですよね。
近年は 「Exe」 や、最新鋭の 「GSE」 など、一般的なボギー台車を採用する傾向が見受けられますが、やはり小田急の特急用車両といえば連接構造。SEに始まり、NSE、LSE、HiSE、そしてVSEと、小田急ロマンスカーの歴史は連接車の歴史でもあります。
車体側面の乗降用扉は、自動かと思いきや、実は手動でした。開閉時も内開きで、この理由は主体を平滑にするためで、当時はまだプラグドアは開発されていなかったことから、この手法が採られました。
内装ですが、 「ロマンスカー」 の名に相応しく、2人掛けの回転式クロスシートを採用しています。シートピッチは1,000mm。座席はアメリカのダグラス社製の航空機、DC-4型旅客機を模倣しています。
3000形は、鉄道友の会による第1回 「ブルーリボン賞」 受賞車両となりました。
また、国鉄の線路を借りて高速度試験も行われました。国鉄にもデータの共用をという条件で実現したもので、1957年9月に143km/hを叩き出しました。これは狭軌の鉄道では当時、世界最高速であり、この結果が新幹線の開発に大きく寄与することになります。最終的には145km/hまで記録を伸ばしました。
3000形は増備を重ね、1959年には箱根特急の全てが3000形で賄えるようになりました。これによって、特急用として活躍した1700形や2300形などは一般用車両に改造されることになります。また、当時の3000形は非冷房でしたが、1962年頃から床置き式で冷房装置が取り付けられるようになりました。
1963年、新しい特急用車両である3100形 「NSE (New Super Express) 」 が登場しました。
流線型の先頭部と連接構造はSE車の流れを受け継いでいますが、最も注目を集めたのが運転席を二階に配して、いつもは運転士しか眺めることが出来なかった先頭車の最前列を客室にした展望席を採用したこと。これは1961年に登場した名鉄7000形 「パノラマカー」 に範を採っていますが、小田急としては画期的な車両になりました。箱根への特急は、1967年までに3100形に置き換わっています。
そうなると、3000形の去就が注目されるようになりますが、小田急が目を付けたのが、当時気動車で運行していた御殿場方面への直通優等列車の電車化。
小田急の御殿場線乗り入れは、1955年から始められていましたが、御殿場線の電化によって、一気に電車化の計画が進み、当初はNSE車の乗り入れも検討されたようですが、最終的にはSE車を改造して宛がうことになりました。
デビュー当初は8両編成 (8連接車体) でしたが、御殿場線乗り入れに際して、編成が短縮化されることになりまして、8連接車から5連接車になりました。これに伴って、愛称もSE車から、 “Short” を意味する “S” の字が加わり、 「SSE車」 と呼ばれるようになりますが、改造箇所は編成の短縮化だけではありませんでした。
大きく変化したのが前面形状。
前照灯を車体前面の中央部に設置してあるのがオリジナルの姿ですが、改造を機に左右に設置されることになり、愛称板の掲示もNSE車と同じ仕様に変更されました。
こうして、1968年から 「あさぎり」 はSSE車で運行されることになりましたが、 「あさぎり」 は特急ではなくて急行です。そういう意味で言えば、格下げかなとも思うのですが、3000形の活躍場所は何も 「あさぎり」 だけでなくて、 「さがみ」 や 「えのしま」 といった線内特急にも充当されており、決して格落ちした車両でないことは明らかでした。ただ、どうしてもNSEの方がフラッグシップになりますので、やっぱりパッと見では、 「NSEに代を譲って、隠居生活を送っている」 ようにしか見えませんでした。
8車体から5車体に短くなった3000形ですが、列車や運転の時期 (季節等) によっては2編成を繋げて走ることもありました。
「あさぎり」 の由来が富士山西側にある朝霧高原であるのは説明するまでもありませんが、最初に採用されたのが、前述のように1959年から。それまでは、 「銀嶺」 「芙蓉」 「長尾」 、そして 「朝霧」 という愛称がありましたが、1968年7月に平仮名の 「あさぎり」 に統一され、気動車から電車へと変更されました。
なお、その当時は特別準急という種別で、新宿-新松田間はノンストップでした。
同年10月のダイヤ改正で、国鉄内で準急が廃止されるのに伴い、 「あさぎり」 も急行に格上げされることになりましたが、前述のようにデビュー当初は箱根への特急に使われていたことを考えると、やはり格下げ感は否めませんでした。
そんな3000形も1970年代に入ると、老朽化が目立つようになります。元々、耐用年数を10年程度に抑えた設計だったので、老朽化が早まるのは致し方が無かったのですが、1976年にSE車 (SSE車) の後継車両の計画が始まり、1980年に7000形 「LSE (Luxury Super Express) 」 として具現化します。それまでは、NSEが検査入場する際に3000形が箱根特急に充てられるというフローを展開してきましたが、LSEの登場でそれが無くなり、1983年に1編成が廃車されるのを機に、置き換えが加速し、 「あさぎり」 の置き換えも議論が繰り広げられましたが、1987年に10000形 「HiSE (Hi-Decker Super Express) 」 が投入されると、特急運用からも外され、 「あさぎり」 の運用のみに従事することになります。
老朽化による置き換えを、1988年から本腰を入れて計画するようになり、それまで小田急のみの乗り入れだったのを、JR東海も巻き込んでの 「相互直通運転」 としたい旨をJR側に打診し、1991年に小田急が20000形 「RSE (Resort Super Express) 」 を、JR東海が371系電車を登場させて、それまで急行だった 「あさぎり」 を特急に格上げさせて、置き換えを完了させました。
「あさぎり」 運用から撤退した後も、しばらくは波動輸送用で残されていた3000形ですが、1992年にさよなら運転が行われて全車が引退、そして廃車となりますが、このうち、デハ3021とデハ3022はデビュー当時の姿に復元されて、大野工場に保存されています。
小田急3000形は、日本の鉄道史に燦然と輝く名車両ですが、昨今、国鉄のED40形電気機関車とED16形電気機関車が国の重要文化財に指定されたのは記憶に新しいところですが、小田急3000形もそれに見合う条件は整っていると思います。重要文化財でなくても、せめて機械遺産に登録すべきではないでしょうか?
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い様
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【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.946 (電気車研究会社 刊)
日本鉄道旅行歴史地図帳 第7号 「東海」 (新潮社 刊)
ウィキペディア (小田急ロマンスカー、小田急3000形電車、重要文化財など)