昭和59年2月のダイヤ改正は、貨物輸送方式に大鉈が振られた改正として歴史上、語り継がれる改正でした。また、老朽化に伴ってEF58が事実上の引退勧告を迫られ、その後継機として信越本線で活躍していたEF62に白羽の矢が立ち、段階的にEF58を置き換えていきまして、これ以降、空前のゴハチブームが巻き起こります。
こんな感じで、あまり明るい話題が少なかった59.2改正で、殆ど唯一、ファンにとって明るい話題となったのが、九州におけるブルートレインの 「ヘッドマークの復活」 でした。
合理化を理由に、50.3改正を機に東京駅発着の列車を除いてヘッドマークの取り付けが廃止されたブルートレイン。特にSL全廃後の鉄道人気の中心にあったのがブルートレインだったのですが、機関車の前面はのっぺらぼう状態で、客車の最後尾を見ないと何の列車か判らずじまい。しかも人気があるのは、ヘッドマークも誇らしげな東海道ブルトレであり、A個室寝台や食堂車といったホスピタリティの高い列車も東海道に集中していて、上野発着、新大阪や大阪発着、そして九州島内では人気は今ひとつだったのは否めません。また、毎年のように国鉄運賃は値上げばかり繰り返しており、航空機と拮抗しつつあることから、鉄道人気は墜ちていく一方でした。ブルートレインも当時のガキども (その中に私たちアラフォー、アラフィフの世代が含まれる) には絶大なる支持を得ていましたが、利用者にとっては、ただ高いだけで狭い車内で窮屈な思いを強いられるブルートレイン (と、583系寝台電車と夜行急行) は敬遠されるようになり、ダイヤ改正の度に廃止になったり、本数を削減されたりしていました。
この状況を打破したいと考えた国鉄は、ブルートレインは昼行特急の 「L特急」 同様、利用者に親しまれる列車にならなければいけないと考えたのでしょうか、 「まずは外面から・・・」 ということで、約10年ぶりにヘッドマークを取り付けることにしたのです。
先陣を切ったのは九州でしたが、これは国鉄九州総局というより、、門司鉄道管理局が中心となって進めていったプロジェクトでした。
ヘッドマークの廃止とともに、一部は保管されていたものもあったのでしょうけど、大半はゴミ扱いで処分されていたはず。それでも、出来るだけ残存しているマークをかき集めて運用に備えました。
50.3改正段階で 「さくら」 「はやぶさ」 「みずほ」 「富士」 「あさかぜ」 「あかつき」 「彗星」 がヘッドマークを翳していたのですが、この間に 「明星」 の一部列車が客車化されていましたし、今回の59.2改正では新たに 「なは」 がブルートレイン化されましたので、門司鉄道管理局と小倉工場は既存の列車の分も含めて新規に製作することにしました。
九州内のブルートレインといえば、表面が球面状になった 「おわん型」 のマークが何よりも印象的ですが、新規製作されるマークも九州伝統のおわん型を継承することになりました。
この改正では、 「あかつき」 の2往復のうち、1往復の佐世保行きを西鹿児島行きにあらため、これに 「明星」 としまして、従来の 「明星」 は 「なは」 に愛称を変更しました。これによって、 「なは」 は583系から24系25形の客車列車となりました。この結果、 「あかつき」 と 「明星」 は新大阪-鳥栖間で併結運転となりましたが、特筆すべきはこの併結列車にも、それぞれの名を冠したヘッドマークが作成されて、門司-鳥栖間で掲げられたのです。なお、鳥栖から先はそれぞれ単独の列車になりますので、 「あかつき」 と 「明星」 の単品マークも勿論用意されました。また、EF30やEF81 300番代といった下関-門司間のワンポイントリリーフ機関車にもヘッドマークが取り付けられました。
九州ブルトレのヘッドマーク復活は大きな話題として取り上げられ、これがきっかけとなってヘッドマーク復活の機運が一気に高まり、翌昭和60年には上野駅発着の 「あけぼの」 と 「ゆうづる」 もヘッドマークを掲げるようになり、同年3月のダイヤ改正では全国施策として残りのブルートレインもヘッドマークが本格復活しました。また同改正では、 「はやぶさ」 にロビーカーが連結されましたが、食堂車や寝台車を減車することなく1両増やしたために、EF65PFの牽引定数がオーバーしてしまい、代替の機関車としてEF66に白羽の矢が立ち、ファン待望のEF66牽引のブルートレインが実現しました。ヘッドマークの復活とEF66牽引ブルートレインによって、若干瀕死気味だったブルートレインが息を吹き返し、昭和61年11月のダイヤ改正では 「あさかぜ」 にグレードアップした客車を投入し、これをケーススタディとして、民営化後に登場した 「北斗星」 に繋がっていくのです。
私は相変わらずのひねくれた性格で、九州のブルートレインにヘッドマークが復活しても特に驚くことはなく、むしろ、東京-紀伊勝浦間の 「紀伊」 が廃止されたことに哀しさを感じていました。それからどちらかといえば、EF65PF信者だった私にとって、EF66はぶっちゃけ、歓迎はしておらず、これを機に意匠が変更されてしまった 「さくら」 と 「富士」 のマークに落胆していました。だから、あまりこの時期のブルートレインブーム (第二次ブルートレインブーム) はどうでもいいやという気持ちの方が大きかったな。ただ、金帯の 「あさかぜ」 は別でした。
59.2改正で電車から客車になった 「なは」 ですが、61.11改正で廃止になった 「明星」 の後を受け継いで、大阪 (新大阪) 発着としては西鹿児島まで行く唯一の列車となりました。寝台車のグレードアップが実施されたのは民営化になってからで、国鉄時代はB寝台のみのモノクラス編成でした。
【画像提供】
岩堀春男先生
【参考文献・引用】
鉄道ファン No.275 (交友社 刊)
鉄ぶらブックス・1 「伝説のブルートレイン全列車」 (交通新聞社 刊)