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Channel: Club SKRAM ~もはねの小部屋~
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嗚呼・・国鉄時代 (319)

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幼少の頃から鉄道にのめり込んでいた私。しかし、その好き嫌いはかなり激しく、偏見的な見方をしていたというのは以前にもお話ししたかと思いますが、例えば・・
 1) 特急用車両は貫通扉付きでないとダメ。
 2) それに付随することとして、183系0番台は好きだけど、同1000番台は嫌い。
 3) クハ381の0番台は好きだけど、同100番台は嫌い。
 4) カニ24の0番台は嫌い。特にマイクロスカートが付いた前期形はもっと嫌い。
   そして、同100番台は大好き。
 5) 24系25形は好きだけど、24系24形は嫌い。
 6) でも、25形の前期形は嫌い。
 7) 青森運転所所属の583系よりも、向日町運転所所属の583系の方が好き。
 8) DD51は好き。でもDE10は嫌い。
 9) キハ82よりもキハ181の方が好き。
10) 153系は好き、165系は嫌い。
11) キハ58系はパノラミックウィンドの後期形の方が好き。
12) 実は103系はあまり好きではなかった。
13) 寝台特急 「彗星」 は好きだけど、同 「明星」 は嫌い。
14) 自動連結器よりも密着連結器の方が好き。
15) DD13は何と言っても初期形LOVE。後期形はダメ。
etc・・
とまあ、意味の無い 「好き嫌い」 なんですが、今になって思えば、何でそういう色分けをしたのか、その根拠が思い出せないでいます。 “7” の583系ですが、あの頃、青森運転所特有の連結器カバーが好きになれず (それも根拠がないのですが) 、密着連結器が剥き出しになった向日町所属の車両を好んでいたのでしょう。今では全然そういう色分けはせずに、普通に好きな車両になりましたが、今もなお、不思議でなりません。

そしてもう一つ、子供の頃、嫌いな車両がありました。それが画像の115系。それもスカ色の115系がどうにもこうにも好きになれませんでした。多分、 「スカ色は横須賀線のための色」 と信じて疑わなかった先入観があって、それが何で横須賀線以外の路線で、横須賀線と同じ色の電車が走っているんだ? と思ったことが発端になったのだと思います。しかもあまり好きでなかった115系に横須賀線と同じ色を塗るんだ? って子供心に憤慨したのでしょう。総武快速線も同じ考えでした。とどのつまり、 「青とクリームのツートンカラーは横須賀線以外に採用するな」 という考えなんでしょうね。

中央東線のローカル輸送には70系電車が投入されていて、山間部を走るスカ色の電車という意味合いでしょうか、 「山スカ」 と呼ばれていました。昭和41年、中央東線に残っていた客車普通列車の一部を電車化する名目で、115系を新たに製造して三鷹電車区 (東ミツ~現在のJR東日本三鷹車両センター) に配置しました。この時、クモハ115が新たに登場し、モハ114もトンネル断面の低い中央東線に対応させるため、パンタグラフ取り付け位置の部分だけ低くした800番台がお目見えしています。そして70系に合わせて外板塗色もスカ色を採用し、中央東線用の115系は何かと初物づくしとなりました。

登場当初は、新宿-松本間の普通列車に使用されましたが、新宿-高尾間については、101系の快速電車が分刻みのダイヤで運行していたため、それほど多くの列車が運転されていたわけではなく、1時間に1本程度でした。
基本編成であるクモハ115-モハ114-クハ115を2本つなげ、この編成間にサハ115を2両組み込んだ8両編成がメインで、新宿乗り入れに際しては、上り方に郵便荷物電車が併結されていました。このために新たに専用の車両が用意され、低屋根のクモユニ82 800番台とクモニ83 800番台が同時に登場しています。

昭和43年、急行 「かいじ」 が登場し、新宿-甲府間で運転が開始されました。当然のことながら使用車両は165系ということになりますが、不定期の3往復に関しては、115系が宛がわれまして、俗に言う 「遜色急行」 が誕生しました。115系が急行運用に駆り出される時は、車両が不足するため、小山電車区 (北ヤマ~現在のJR東日本小山車両センター) の湘南色115系や快速用の101系が代行運用を担ったりしました。その2年後の昭和45年10月改正で、 「かいじ」 の下り6号が定期化され、グリーン車が連結されることになりました。ただ、115系にはグリーン車が無いので、苦肉の策として新前橋電車区 (高シマ~現在のJR東日本高崎車両センター) に配置されていた急行用165系のサロ165-14を借り入れ、スカ色に塗り替えて115系の編成に組み込みました。115系の歴史上、急行運用に充てられるのは特段珍しいことではありませんでしたが、グリーン車が組み込まれたのはこれが最初で最後でして、昭和47年10月までの期間でしたが、115系にとっても165系にとっても外すことが出来ない珍事と言えます。

115系の登場後も中央東線の客車普通列車は若干ではあるものの残されていました。この客レを電車化するのと、老朽化が見え隠れしていた70系を置き換えるにあたって、115系が増備されたのが昭和50年。この増備車から冷房付きの300番台になりました。115系300番台は昭和48年に登場していますが、0番台同様、中央東線用として初めてクモハがラインナップされましたが、モハ114については、低屋根とはならずに、折りたたみ部を低くした新開発のPS23型パンタグラフを搭載しました。この300番台投入によって最後まで残っていた客車普通列車は全廃されて、全面電車化されました。70系置き換えにあたっては、70系の基本編成が4両だったため、115系もこれに倣う必要があったことから、従来3両だった0番台の基本編成に中間に組み込まれていたサハを組み込んで4両として、高尾-甲府間が主体だった70系の運用に就きました。これを機に、都心乗り入れを冷房付きの300番台がメインで受け持つようになり、非冷房の0番台は高尾以西のローカル輸送に従事するようになりましたが、0番台の都心乗り入れが全く消えたわけではなく、冷房使用時以外を中心に、300番台との混結で都心にも乗り入れたりしていました。

これでほぼ中央東線のローカル輸送は115系が一手に引き受けるようになりましたが、イレギュラーで韮崎-塩山間でまだ旧型国電によるローカル輸送が残っていました。これは70系ではなくて、身延線用車両による間合い運用だったわけですが、これを新型に取り替えるため、昭和55年に115系1本が増備されます。これはシートピッチ改善型の1000番台で、初の1000番台投入であると同時に、1000番台初のスカ色となって異彩を放ちました。これで中央東線は完全新性能化を達成しました。

0番台は長らく非冷房のままでしたが、昭和57年からようやく冷房化に着手することとなり、その第一弾として、クモハ115-11+モハ114-811+サハ115-23+クハ115-185がAU75を載せて出場しました。翌年にはもう1本 (クモハ115-13+モハ114-813+サハ115-24+クハ115-186) 冷房化されますが、国鉄時代はこの2本のみでした。JR化後はAU712による冷房改造のため、AU75搭載の0番台は結構貴重だったりします。また、この時期から変性の短縮化が行われ、4両だった基本編成からサハを抜き取り再び3両に戻し、サハは運転台をくっつけてクハとして、沼津や広島に転属していきました。残るサハも60.3改正までに全て抜き取られて、全編成が3両となりました。
国鉄末期の昭和61年、3両×2の6両で運転されていた中央東線の普通列車の一部を同じ6両ながら固定編成とする計画が持ち上がりました。これは、地方線区で車両が必要になった措置で、クモハ入りの編成が要ることから、クモハ-モハのユニットと他線区から移籍したモハユニットと交換して、6両固定編成を組成しました。また、配置区が三鷹から豊田電車区 (西トタ~現在のJR東日本豊田車両センター) に移管し、民営化を迎えます。ただ、その頃から新宿乗り入れはめっきりと少なくなり、国鉄最後のダイヤ改正 (昭和61年11月) では、朝夕に数本あるだけとなりました。そう、この時期から快速用の201系が直通で大月まで行く運用が出始めていたためで、115系による新宿乗り入れは徐々に201系に置き換わる形となり、気がつけば東京へは立川までの乗り入れとなってしまいました (いつ頃、115系が新宿に乗り入れなくなったのかは不明) 。

画像は、基本編成が3両になっているのと、後方に冷房付きの車両が連結されているので昭和60年以降の撮影ということになりますが、 「高尾」 という行く先を掲出していることから、都心での撮影ではなさそうです。しかも背景が都会っぽくなっているので、写したのは甲府辺りかな? と考えられます。最初は国分寺とか小金井とかその辺りかなって思ったのですが、だったら 「高尾」 って行き先は掲出しないだろうし、ましてや60.3改正以降であるならば、日中に立川以東で115系の普通は走っていなかったので、やはり高尾以西になりましょうか。
あらためて画像を見ると、 「532M」 という列車番号を掲出していることが判ります。基本3両編成なら60.3改正以降だというのは先程も申しましたが、その頃の時刻表を紐解くと、532Mは何と富士急行の河口湖発 (5時54分) で、高尾行きは間違いないのですが、高尾着は7時29分。そうなると、撮影は甲府ではないことが裏付けられました。となると、この列車は三鷹への回送である可能性が高くなりますね (豊田かもしれませんが) 。

子供の頃、全然好きでなかったスカ色の115系も、今やかなり貴重な存在となっているようで、それ以前に113系のスカ色が消えた昨今、スカ色そのものが風前の灯火状態になっているのは知っていました。そんなスカ色の115系は間もなく消えるとのことですが、近年、大宮や品川で見かけたりしていましたから、今さら騒ぎはしません。1両くらい、保存してくれませんかねぇ?

【画像提供】
イ様
【参考文献・引用】
鉄道ピクトリアル No.869、No.910 (いずれも電気車研究会社 刊)
キャンブックス 「115系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)

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